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白石のソウルフードは「ハートフル」 孝行息子のうーめん物語

「心が温まる麺」
約400年も前から、そんな評判とともに親しまれているご当地麺があります。
その名も「白石温麺(うーめん)」

そもそも、「うーめん」という名をはじめて聞いたという方も多いのではないでしょうか。
「そうめん」じゃないの?「心が温まる」ってどういうこと?

そんな、知る人ぞ知る宮城県白石市のソウルフード・うーめん。
この記事では、テレビ番組「秘密のケンミンショー」でも話題を呼んだ「きちみ製麺」会長、吉見光宣がうーめんとともに歩んだ半生を語ります。


こんにちは。今年で創業126年を迎えるきちみ製麺の吉見光宣と申します。

吉見家は、蔵王連峰のふもとにある宮城県白石市で、明治30年(1897年)から4代にわたって「白石温麺(しろいしうーめん)」を作り続けてきました。今日は、私たちが昔から愛してきた「うーめん」について語らせていただきたい・・・いや語らせていただきます。

みなさま、決して損はさせませんのでしばしお付き合いくださいませ。


1. 孝行息子が由来の「白石うーめん」

うーめんは油を使わずに作られているため身体にやさしく、うどんやそうめんと比べて短く食べやすいので、子どもからお年寄りまで多くの人に親しまれています。

うーめんが誕生したのは今から約400年前。孝行息子が、胃病で苦しむ父のために作ったのがはじまりです。うーめんを食べた父はすっかり病状が回復。「心温まる麺だ」と、当時の白石城のお殿様により「温麺(うーめん)」と名付けられました。現在も、宮城県内を中心に多くの方に愛されています。

2. うーめんと共に歩んだ高度経済成長期

きちみ製麺は、製麺業を代々営んできました。私なんかは子どもの頃からうーめんをよく食べていましたし、工場で遊んでいつも怒られてもいましたね。

昭和35年に撮影した子どもの頃の写真。左が私です。

昭和29年に、祖父に代わって親父が社長になりました。それまでは注文された麺をつくるだけでしたが、親父は「お客さんを開拓して、自分の力で売ってみよう」と一念発起し、「製造・販売メーカー」になるという新たな挑戦を始めます。

そして、地元で愛されてきた白石うーめんを県外にも広めていこうと、東京でも販売を始めたんです。

ほかでは使わないような上質な原料を使い、地域の食べ物だったうーめんを高級品として売り出しました。なかなか大胆な発想だったと思いますよ。当時は、白石うーめんの販路を宮城県域以外に広げる会社は多くありませんでしたから。

ちょうど東京オリンピックもあって、日本がぐんぐん伸びていく時期。いやぁ、儲かったみたいですよ。昭和40年代に入るといよいよ景気は上昇期。老舗百貨店で商品が採用され、仙台へと市場が広がっていきました。お袋も一緒になってギフトセット商品を考え、百貨店さんには相当売ってもらいました(笑)。

ただ、吉見家は決して裕福ではなく、貧乏でしたよ。昭和30年代は家にテレビがなかったので、従業員の家にテレビを見に行っていました。小学6年生の時の集合写真は今も忘れられません。周りの友達はきちんとした服を着ているのに、自分だけ膝にボロ布をあてた服を着ていたんです。

親は「もったいない」が口癖で、資金繰りにも苦労していましたが、それでも挑戦し続ける姿をそばで見てきました。

3. あとつぎを決意させた「親父の弱音」。

実は、私はもともと家業を継ぐ気はなかったんです。学校を卒業したあとは東京のゼネコンで働き、充実した日々を送っていました。

ところがある時、父が電話をかけてきて「限界がきた」と弱音を吐いたんです。父は我慢強い人間で、それまで弱音を言ったことは一度もなかったので「何が起きた!?」とびっくりしましたよ。

父はヘルニアを患い、思うように身体が動かなくなっていたんですね。私は吉見家の長男でしたし代々続いてきたきちみ製麺を支えていこうと、家業を継ぐ決意をして白石に戻りました

昭和後期から平成に入るにしたがって、商店街はだんだんと活気がなくなり、スーパーが台頭する時代に突入します。時代の流れに乗るために流通について学び、うーめんをスーパーに置いてもらえるよう交渉しましたが、出遅れてしまったためなかなか儲けを出せずに苦戦していました。

転機となったのは、個人向けの宅配便が始まったこと。それまでは店舗に置くしかなかった商品を、個人のお客さまへ販売することが可能になったんですね。すごいことですよ。

現在でも売上の40%以上は個人のお客さま。宮城県内の方が多く、地域のみなさまに愛され、支えられて今があると思っています。

4. 共に育ってきた白石に恩返しがしたい

きちみ製麺の歴史は、地域の方々をなくして語れません。私どもは創業から今に至るまで白石のみなさんと一緒に歩んできました。地域とのつながりをより強く感じたのは東日本大震災です。震災当時、私は事務所でプリンターのそばにおり、揺れる機器に必死にしがみついておりました。電気が止まり、真っ暗な中で4日間を過ごしました。

町では断水したエリアが多かったのですが、きちみ製麺では水が少し出たので、町の人に水を配ったり、販売できなくなったうーめんを支援物資として提供したりして。これまで地域の人に支えてもらってきたので、自分達にできることをすべてやり、地域へ恩返ししたいと思ったんです

また、工場の機械が壊れてしまったのですが、修理の人がすぐに駆けつけてくれました。彼らの工場もめちゃくちゃで大変な状況なのに、長い付き合いがあったからだと思いますが、真っ先にきちみ製麺の復旧にあたってくれたんです。

この震災を経験し「地域のみんなで一緒にやっているんだ」と強く感じるようになりました。水道や電気といったインフラに携わる方、私たちの仕事を支えてくれる産業や会社、そこで働く職人さん、みんなが大切でともに育っていく存在であると。

5. 白石うーめんを次の100年へ残すため、社長を退く


私は、地域のみなさんに愛されてきたこのうーめんを、単なる食べ物とは思っていないんです。食べると心が豊かになるもの。だからこそ、ただの「食事」ではなく「食文化」として広めていきたいんです。

白石では給食にうーめんが出たり、離乳食として使われていたり、温麺振興条例という市の条例があったり。地元の人にとっては当たり前の存在かもしれませんが、改めてその良さを意識してもらい、その魅力が県外にも伝わったら嬉しいですね。

私たちは、うーめんをただの「うーめん」とは呼ばず、必ず「白石うーめん」と呼びます。白石うーめんが広まっていくことは、そのまま白石への地域貢献になって恩返しになっていくと思っているからです。

私は2022年に社長を退き、高橋巧さんに事業を承継しました。「白石という土地で、一緒に新しい100年をつくっていきましょう」という手紙を高橋さんからいただき、その誠実さに胸を打たれたんです。「この方ならお任せできる」と思いました。

6.うーめんはただのホットヌードルではない、「ハートフルヌードル」

先日、テレビ番組『秘密のケンミンSHOW極』で白石うーめんが取り上げられて、私も出演いたしました。

取材に来られた番組スタッフの方から「うーめんはただのホットヌードルじゃないんですよね?」と聞かれ、咄嗟に「ハートフルヌードルです」と答えたんです。

それまで、うーめんを表す言葉を見つけられていなかったのですが、食べたら心が温まるという意味で、ハートフルヌードルという言葉はぴったりだと思いました。思いつきで言った言葉ですが、番組の中でウケていたようで、ハートフルヌードルという言葉と共にうーめんを広めていきたいなぁと思うようになりました。

今、きちみ製麺の101年目がスタートしたところだと思っています。もう引退しましたが、社長を務めていた頃は毎朝、工場で出荷前のうーめんを食べて味をチェックしていました。お客さまに愛され続けるために、これからもおいしさを追求していきます。

白石の未来を背負って「明日もっとおいしい」そんな麺をつくっていきたいんです。みなさま、ぜひこれからもお付き合いをお願いいたします。