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愛のために、美しく怒ればいいよ。【魔法使いの哲学#11】【人間関係、矜持、不動明王】

先日、ゲストハウスでK様とお菓子を食べながら話していた。占いではなく雑談の枠だが、人生相談のような雰囲気になった。話の流れでK様は「相手に対して思うことがあっても、それを言うと自分の波動が下がるのではないかと思ってしまって言えない」と話してくれた。違和感を覚えたので、「たとえばお子さんが知らない人にいきなりぶん殴られたらどう思います?」と尋ねてみた。K様は一瞬えっ、となったあと、「いや…殺す」と仰った。それでオーケーですと僕はお答えした。守るべきものを守るために怒るべき時に怒ってどうして“波動が下がる”のだろう。不動明王を見るといい。あんな怖い顔をしているが、実際に見に行くとめちゃめちゃに波動が高いのがわかる。片手に剣を持ち、目をカッと開いて恐ろしい顔をしてこちらを見ている。これが魔を祓うプロの姿である。こうあればいい。自分自身の尊厳や、自分が心から大切に思っているものや人を蔑ろにされて何も言えなくてどうして波動が高いんだ。むしろ黙って飲み込んでしまう方が毒性が強い。ちゃんと異議を表明すること。「それは違うと思います」と唱えること。それ自体はまったく悪いことではない。不動明王のあの顔は、怒っていいぞと言っている。そして怒る時はこういうふうに美しく怒ればいいぞと言っている。背をスッと伸ばして目をまっすぐ相手に向け、片手には剣を持ち、美しく怒ろう。さあ、貴方もご一緒に。美しく怒って魔を祓おう。「魔」というのは、必ずしも目の前の相手を意味しない。自分と相手との間に吹き溜まってしまった淀みのようなもの。美しい怒りの炎でそれを焼き祓うことが必要なタイミングも、人生にはある。

夜の繁華街の路上で占いをしていた時、人間の悪意というものをこれでもかというくらい目の当たりにした。目の当たりにしたというより、実際にたくさん受けた。人の痛みを想像せず、自分の愚かしさを知らず、他人を笑い、いたずらに害をなす。世の中にはそういう人たちが残念なことに実際にいる。しかしここで重要なことは、彼らは決して悪い人たちでも強い人たちでもないということだ。彼ら自身が普段さまざまな苦しみを抱えている人たちであるということはかなり初期の頃から知っていた。日頃の鬱憤の矛先が、たまたま夜の街で小汚い格好をして座っている路上占い師などに向かってしまうだけだ。強い人ではないので、弱そうな人、反撃しなさそうな人に自然と矛先が向かう。しかし残念ながら(と言うべきか)彼らの目論見は大きく外れ、僕は意外にもしっかり反撃できるタイプである。おもむろに立ち上がってまっすぐ相手の目を見てなるべく大きな声で、なんなら笑顔で「こんにちは!」と元気に挨拶するだけでみんなびっくりして逃げていく。不思議なものだ。魔除けの面などが大きく目を見開いていたり怒った顔や笑った顔をしていることにはちゃんと理由がある。こちら側の内的なエネルギー、「覇気」のようなものを示すだけで大抵の魔(人)はびっくりしてそそくさと去っていく。

そんな環境の中で、当時僕は強い人でありたいと願った。自分に対するちょっとやそっとの嫌がらせは完全に無視し、明確な敵意や悪意に対しては元気な挨拶で無効にできるくらいの度胸と迫力のある人でありたいと思った。もしもこれから先自分より大切なものができた時、それを守れる人でありたいと思ったからだ。「守れる」なんて、そんな大層なものではないかもしれない。ただ、大切なものを想って「ちゃんと怒れる人」は美しい。昔そういう人を見て、自分もそうありたいと思った。一時の感情としての怒りではなく、もっと腹の奥底からの、愛のための怒り。魂が美しくあるための怒り。「優しい人が好き」みたいなことを言うとき、世間では喧嘩なんて絶対にしないような物腰穏やかで柔和な人がイメージされる。しかし実際には強さと優しさはセットだ。強さは優しさのために使うべきだし、本当に優しくあるには精神的な強さが不可欠だ。どんな相手に対しても臆することなく、いや、たとえ内心臆していたとしても、自分の意思をきちんと表明できる人でありたい。もしも肝心な時にビビって何もできなければ、大切なものを守れない。大切なものを守るためなら、怒っていいよ。愛のために、美しく怒ればいいよ。

こういう話をするからか、最近はいろいろな方面から「強い人」として見られることが多い。しかし僕はもともと人一倍臆病な人間である。子どもの頃家族で動物園に連れて行ってもらった時、檻の中の虎を見た瞬間一目散に逃げ出したことがある。超がつくほど怖がりだった。絶対に自分だけは安全な場所を確保しようとするタイプだった。そういう自分はいまもちゃんと僕の中にいる。恐怖を感じないタイプではまったくないどころか、カッコ悪いくらいビビりな自分も同時に僕の中に生きている。決して強い人ではない。どちらかというと「自分の弱さをよく知っている人」だ。だからこそ、自分と同じように弱い人の味方でいたいと思う。自分と同じように弱い人に「おい、しっかりしろ! お前はやれる!」と鼓舞できる人でありたいと思う。

「矜持(きょうじ)」という言葉が僕は好きだ。意味は「誇り」とだいたい同じだが、これは語源が面白い。「矜」というのは矛の柄のこと。「矛の柄」を「持」っている、ということで矜持らしい。その昔、中国の武人は矛を持つことが誇りだった。日本でも武士は皆腰に刀を差し、それが武士の命であり証だった。矛や刀などの武器を持つことが武士や武人たちの誇りだったのだ。「持つ」というのがこの話のミソだ。「突く」とか「斬る」とかまでしなくていい。矛(刀)を「持つ」だけで、誇りを得るには充分ということだ。ここで言うところの矛は、現代では「言葉」に置き換えることができる。つまり矜持とは、自分の言葉を持っている状態を意味する。言葉で斬りつける必要はない。ただ、言葉を持っているだけでいい。「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」と孫子は言った。真の強者は戦って勝てる者ではなく、戦わずして勝ってしまう者だ。自分の言葉を持っている者は、戦う必要すらなく既に勝っている。不動明王もまた、右手の剣で敵を斬りつける姿は僕の知る限りあまり描かれない。ただ、怖い顔をして片手に大きな剣を持っている。魔を退けるにはそれで充分だ。

仏教には「仏性(ぶっしょう)」という考え方がある。これは簡単に言うと、どんなものや人にも仏の性質が秘められていますよ、という教えだ。どんな悪人にも仏性がある。路上で様々な人に出会った時、この言葉をいつも胸に置いていた。どんな人に出会っても、「この人はいまは調子に乗っているだけで、本当は優しい人だな」とか「この人にはこういう良いところがありそうだな」とか意識的に思いながら言葉を交わすようにしてみた。すると不思議なことに、最初はえらく攻撃的だった人がだんだんおとなしくなり、最後には「お前いいやつだな!」と気に入られて差し入れやチップを頂いてしまう。そんなことが何十回とあった。

①どんな相手にも仏性を見る。
②切り返すことのできる言葉を「持つ」。
③相手を斬りつける必要はないと心得る。

自分と相手との間に淀んだ魔を祓うには、この3つのギリギリのラインを保つのがコツだ。すこし高度なスキルかもしれないが、できるようになると人間関係の見え方がいろいろと変わってくる。ひょっとすると魔だと思っていたものが、ふと思いもよらない仏の顔を見せてくれるかもしれない。

次回、12/10㈯更新。パート12。
『心ゆくまでわちゃわちゃしようぜ』。
このエッセイもいよいよ佳境です。

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