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いつだって助けられて生きている。

あなたは自分が本当に好きだと思える人、カッコいい、美しい、可愛い、尊敬できると思える人とだけ関わって生きていけたらどんなに素晴らしいだろうと思ったことはあるだろうか。僕はある。そうしようと思って、実際に試した時期もある。しかし今はあまりそう思っていない。僕が別に好きだと思わないものや人の存在が、もはや僕の人生を脅かさなくなったからだ。脅かさないどころか、助けてくれたり新鮮な視点や驚きを与えてくれることも多い。もちろん、自分の好きなものや人をきちんと選んで生きるのは大切だ。そうでないものと適切な距離を取ることも大切だ。けれどいまは、そうでない人と出会うことにも同じくらい価値があると思えるようになった。思えるようになった、と言うのは少し違う。思わざるを得なかった、のほうが正確だ。家がなかった頃(家探しの旅をしている最中)、当時あまり積極的に好きだと思わなかったもの、興味のなかったものたちに思いがけず助けられるという経験をたくさんした。たくさんなんてものじゃない。ほぼ全部と言ってもいい。僕を助けてくれたほぼすべての存在は、僕個人が出会い頭に好きとかカッコいいとか美しいとか可愛いとか特に思っていなかったものや人たちだった。そんなことを思っている場合ではなかったし、そんなことを思うより前に彼らは僕を助けてくれた。結果として、僕は彼らに頭を下げて生きることになった。彼らがいなかったら「家」は見つかっていない。彼らがいてくれてありがとうと思う。彼らに出会えたことは奇跡だと思っている。苦手だなと感じる人に何度も何度も助けられてきた。素敵だなと感じていた人から酷い目を被られたこともある。自分の感性や物差しでその人のことを好きとか嫌いとか、何かの能力がすごいとかすごくないとか、そんな狭量な視野で物事をジャッジすることのくだらなさを思い知った。

僕が心から純粋に好きなものや美しいと思うものは、いつもほんの少しだけ遠いところにいる(場合によってはあの世にいる)。魅力や憧れとしてはもちろんあるが、彼らのいるところに会いに行ったり自分の横にいてもらうことよりも今は「自分自身がそうあること」に興味がある。自分が自分を好きでいること。自分を美しいと思える存在に近づけていくこと。自分がカッコいいと思える存在に自分自身が近づくこと。存在のヴァイブレーションに身を浸し、心地よい振動を自分のものにすること。それだけを見ている。憧れの存在は、そのための指標みたいなものだ。他人がどうあろうと何を考えていようと影響はない。ただ自分自身が美しくあれば良い。それにだけ集中していれば、他者との関係性はそれに応じて築かれていく。

この世界には自分一人だけが生きているわけではない。自分が欲しいと思わないものを欲しいと思う人がいる。自分が食べたいと思わないものを食べたいと思う人がいる。それはとても豊かなことだ。尊いことだ。自分とは異なる価値観を持って生きている人がいるというのは素晴らしいことだ。

もしも自分と異なる価値観や人との出会いをすべて拒絶した場合、自分に同意してくれる人以外すべてを敵、或いは下等の人々と見做し、怒り、憎悪を抱きながら生きてしまうことになるだろう。おそらく最初はその人も好きなものにだけ囲まれて暮らそうと思ったはずなのに、逆に何かに対する反発や憎悪の罠に嵌って生きてしまうというケースはよく見られる。例えば自然主義系(と僕が勝手に呼んでいる)の人たちは、自然と平和を愛する反面、現代医療や資本主義への過激な猜疑心と敵対心で結束していることが少なくない。しかしどんな物事にも必ず良い側面と悪い側面とがある。あらゆる側面を持つ選択肢の、良い面と悪い面とを組み合わせてその時その時最良と言える「ひとつの多面体」のような選択を採ることが共同体社会を営んでいくということだ。この世からお金がなくなればすべての問題が解決するとか、そういうことではない。資本主義社会にも現代医療にも悪い側面なんていくらでもある。しかし同時に、受けている恩恵から目を背けてはいけない。恩恵を無視すれば共同体全体としての判断を見誤る。自然と平和を愛する生き方は美しい。だからこそ、怒りや敵対心の領域にあまり長く留まらないでほしいと思ってしまう。

これと同じことは昨今のフェミニズム、不登校や非登校、食糧問題、環境保全活動などあらゆる社会課題に通じる。この世界には自分一人だけが生きているわけではない。自分が欲しいと思わないものを欲しいと思う人がいる。自分が食べたいと思わないものを食べたいと思う人がいる。自分が好きではないものを好きだという人がいる。自分が好きなものを好きではないという人がいる。それはとても豊かなことではないだろうか。自分と異なる価値観を持つ人がいるというのは、尊いことではないだろうか。

僕たちは誰でも何かに助けられて生きている。自分の好きなものにも、愛しているものにも、知ってる誰かにも見知らぬ誰かにも、自分と同じ考えの人にも違う考えの人にも、興味のあるものにも興味のないものにも、場合によっては憎悪を抱いている対象にさえ、いつだって助けられて生きている。「諸法無我」と仏陀は説いた。自分というのはそもそも存在せず、関係性のみがあるという教えだ。「自分」は独立した確固たる存在ではない。関係性によって形成される幻でしかない。「自分」が存在しないということは、「他者(=他者にとっての自分)」だって存在しない。だから、ただ、関係性だけがある。この世界には自分一人だけが生きているわけではない。自分が欲しいと思わないものを欲しいと思う人がいる。自分が食べたいと思わないものを食べたいと思う人がいる。それはとても豊かなことだ。自分と異なる人がいることは、尊いことだ。

次回、5/6㈯「言葉を使って言葉を解け」。

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