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これ以上好きになるのがこわかった。

好きになるときはそのアイドルの人生すべてを好きになってきた。

アイドルを好きになるのがこわかった。
たくさんの愛をもらって、たくさんの幸せをもらって、その代わりにアイドルと一緒に勝手に傷ついたり、勝手に悲しみを共有してしまったり、勝手に好きになった挙げ句勝手に苦しんでしまう、わたしは面倒な人間だった。
だからこそこれ以上誰かを好きにならないように、あまり多くを知らないように、自分を守ってきたつもりだった。

そんな不器用な生き方しかできないわたしを、わたしは嫌いになれずにいる。まあ仕方ないなぁと思う。わたしにとっての好きとはこういう意味で、一度好きになったらずっと好きなんだろうなと思う。ずっとが一生かはまだわからないけれど、一生を過ごしたあとに、たぶん一生好きだったといえるんだろう。

どんな感情も言葉にできなくて、すべては恋につながる。でもその恋が苦しくて助けを求めて、結局助けられるのさえアイドルだった。
KAT-TUNに出会ったわたしは文字通りKAT-TUNに救われているから。












これは、亀梨和也を好きになった話。






これが恋だと自覚してしまった話だ。








きっかけはいつなんだろう。
ごくせん2を観ていたときかもしれないし、ヤマトナデシコ七変化を観ていたときかもしれないし、妖怪人間ベムを観ていたときかもしれない。毎週観ていたGoingかもしれない。


KAT-TUNに出会う前に、もう何回か出会っていたんだと思う。

振り返ればきっかけはたくさんあって、そのひとつひとつにじりじりと好きへのカウントダウンをされていて、それでも確信できるのは今回再放送の『野ブタ。をプロデュース』がとどめだったということだし、それまで亀梨和也という湖の上で浮き輪を持っていたわたしが浮き輪を手放した瞬間だった。

美しかった。本当に美しかった。
冷たくて薄氷の上を歩いているみたいで、人を寄せ付けたくないように見えて、それでいて人が好きで、目が野心に燃えていた。すべてを背負っていた。


「その重そうな荷物、一緒に持つよ。きっと他のメンバーも手を貸してくれるよ」
「弱音を吐いてください。愚痴をいってください。わがままをいってください」


以前、元AKB48の篠田麻里子が高橋みなみに言っていた言葉で、わたしはこの言葉を聞いて浴びるように泣いてしまった。
わたしは亀梨和也に対して同じ言葉をかけたくなる。
だけど、亀梨くんはその荷物をやっぱり一人で持ってしまうように思うし、弱音も愚痴もわがままも言わないんだろうなと思う。それでも、声をかけたくなってしまう。

それでいて、そのギリギリの姿を美しく思ってしまうわたしはどこまでも残忍で残酷な人間だ。

怖かった。亀梨和也を好きになるには、たぶんわたしの人生すべてをかけなければいけないと思った。
どんな過去があったかこれからもすべてを知ることはできないし、本当の気持ちは知ることができなくて、残されているのはそこにあった事実だけだった。

わたしは改めてごくせん2を観ようと思った。
KAT-TUNデビュー前の亀梨和也と赤西仁が出演していたドラマ。この亀梨和也への好きの気持ちから、ごくせん2を観たくなることはたぶん必然だったし、それならば赤西仁と亀梨和也二人と向き合うこともたぶん必然だったんだと思う。

このドラマをわたしは物心がつくまえに観ていたから、ほぼはじめて観ると言ってよかった。だからこそすべてが新鮮で、素敵で、どうしようもなく美しいものを見てつらくなった。

目が凄いと見惚れた。目だけでぜんぶ伝わる。射竦められる。
孤独がこわいのに孤独になろうとしているようで、それでもやっぱり孤独は嫌で仲間思いな小田切竜と矢吹隼人は似ていると思った。

小田切竜も矢吹隼人も、このときの亀梨和也と赤西仁だからこそ演じられた、まさにこのときしかなかったんじゃないかと思うような演技だった。
こんなに渇望していて必死で、だからこそ花火みたいに煌めいていた。目を背けたくないほど美しいのに、思わず目を背けたくなるぐらいに美しかった。
もちろんその美しさには外見の美しさもあるけれど、わたしが射竦められたのはそれよりも内なる面だった。


その瞬間はそのときにしかないから美しくて、18歳から19歳の亀梨和也も、21歳の赤西仁も、このときしかなかったから。それを映像として納められていることの尊さに改めて気づかされる。

運命ってやっぱりあるんだな、わたしも運命の目撃者になりたかったなぁと何度でも思う。
それでも、画面の前でわたしはたしかにあの二人の運命の瞬間を一人占めしていた。

海賊帆で絆を歌う亀梨くんは、擦りきれるぐらいに極限まで美しさの芯だけを残されたかのようで、綺麗だった。
亀梨くんが作詞をしたと聞いて、震えるようだった。どこまでもわたしは亀梨和也に溺れていく。

先日、どこにも出していないお宝の写真として、小田切竜の制服を見せてくれたその事実の大きさに改めて好きが抱えきれなくなってしまう。

亀梨和也の歩んできたそのひとつひとつのかけがえのない足跡が、わたしの誇るべき道標なのだと思った。

亀梨和也は思っていた何億倍もプロフェッショナルなアイドルで、かわいくて、ぜんぶ背負おうとしている。そんな姿に惹かれているというよりは陶酔しているという表現の方が正しい。器用そうに見えて本当は不器用に見えるし、強さは弱さの裏返しに見える。つかみどころがありそうでなくて、心が見えそうで見えなくて、それでも亀梨和也が見せてくれるすべてが『亀梨和也』のあり方だった。

いつもありがとう。亀梨くんがしあわせでありますように。


まだ人生をかける心の準備ができていないんだけれど、この気持ちは紛れもなく「恋」だった。