「名前」ってなに?

<2006年07月04日の手記より>

先日、今月末から公開予定の映画「ゲド戦記」の先行試写会に行ってきました。ジブリの映画は、子供でも大人でも自分にあわせた楽しみかた・観かたができる気がして、想像力の深夜徘徊を誘惑するのがうまいです。
まんまとたぶらかされて夢見ごこちな夏の夜でした。

ところで「名前」ってなんでしょう?
自分にも当たり前のように名前がついていますが、いったい名前って何なのという疑問が生じ、おもわずウィキやらなんやらで調べてしまいました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%90%8D
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B1

すると・・・
「非近代社会ではしばしば真の人名は霊的な人格と不可分のものとされ、本名を実際に他者が口にして用いることに強いタブーを持つ社会が、多く見られた。」
「これはある人物の本名はその人物の霊的な人格と強く結びついたものであり、その名を口にするとその霊的人格を支配することができると考えられたためである。」

思い返してみると普段、苗字やあだ名でよばれても何とも感じませんが、ファーストネームでよばれるとどこかドキッとしちゃったりすることがあります。そして私を名前で呼ぶ人はどこか特別な存在に感じてしまうような気がします。

アニミズム(生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方)的に考えてしまうと、なにやらとてもウソっぽく感じてしまう21世紀現代ナウに生きる案外頭の固い私ですが、刷り込み作用から想像を膨らませてみたら、まんざら非現実的な話でもないように感じてしまいました。

つまり、基本的に名前をつけるのは親であり、親は私を産み出したものであります。
そして生物にとってもっとも生存が危険な時期である乳幼児期は、名前を呼ぶ保護者(基本的に親ですが)のもとでほとんどの時間を過ごし、生かされます。
この時期の人間の脳で相手が自分にとって重要な存在かそうでないかを識別できるほどの認識能力はないでしょうが、いつも私の名前を呼ぶひとは自分を生かしている大きな要素であろうことは本能的に感じられそうな気がします。
「名前を呼ぶ人=自分の生命を支配する人」という刷り込みがこのデンジャラスシーズンに繰返しなされれば、乳幼児期を過ぎても「名前を呼ぶ人=特別な人」という観念はパブロフの犬ではありませんが少なからず無意識的に発生する可能性がある気がするのです。

逆に考えれば、「自分を支配し制約する人=真の名を呼ぶ人≒名前をつけた人(親、さらに力関係から母<父)」であり、支配や制約の呪縛から解き放たれたい不安定な思春期の人格が、「父殺し」にはしる動機がここにも見え隠れしてそうな気がしました。


あ~、すべて想像で妄想で個人的な楽しみです。
正解があるもんじゃないけど、何かを観たり聴いたり感じたりしてこんな風にぶっとぶことが好きです。

早送りで過ぎ去る緑の季節のメランコリー。
花火大会が終わったあとのノスタルジー。

そんな魅惑的な微熱の果実とともに、もうちょっと“真夏の夜の夢”に陶酔していたい人にお勧めです。

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