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多重時間論(1)いくつもの時間を同時に生きる(旧暦10月1日)

新暦10月28日 新月 旧暦10月1日

今日は新月です。新月ということは旧暦だと1日ということになります。10月の朔日(ついたち)です。10月といえば神無月という異称を持ちますが、もともと旧暦の10月を指していた言葉ですから、本当は今日から神無月です。

我が家のイチョウも色づいて来まして、銀杏をボコボコ落としています(写真)。

新暦と旧暦

神無月とは出雲大社に全国の神様が集って会議(「神議(かみはかり)」と呼ばれる民の幸福の御縁を結ぶ会議)をするため、各地は神様不在になることからそのように呼ばれますが、一方の出雲においては神在月(かみありづき)と呼ばれます。

僕は島根県に住んでいて出雲大社まで車で1時間ちょっとですが、住所は出雲国ではなくお隣石見国に位置するので、神無月と呼ぶべきなんでしょうかね。しかし隣近所に神様が大集合するかと思うと、感慨深い(?)ものがあります。

今年の出雲大社は新暦11月6日に神迎神事があり、翌日7日が神在祭と龍蛇神講大祭。11日、13日と縁結大祭ののち、13日の午後には神等去出(からさで)祭をもって神様は各地に帰られます。

12日が満月に当たりますが、だいたいお祭りは満月というのが多いのは、月明かりが明るいというのもあるでしょう。お盆といえば旧暦7月15日の満月ですし、踊りや神輿はその月明かりの下で行われていました。

出雲大社の行事はこのように旧暦にそって行われているわけです。新暦(グレゴリオ暦)が採用されたのが明治ですから、本来日本の伝統的な行事は当然旧暦において行われていました。

例えば七夕といえば今は新暦7月7日ですが、本来は旧暦7月7日だったわけですから、今年においては新暦8月7日であるべきなのです。新暦7月7日ではまだまだ梅雨真っ盛りですから天の川は期待できませんが、新暦8月7日であれば見られるかもしれません。まあ、都会の空気ではどっちみち見えないでしょうが、僕が住んでいるようなど田舎では、天気がよければ天の川が見えるのが普通です。

このように安易に旧暦から新暦に行事日程が移行されたために、その根底にある文化や季節感はこうも無残に失われてしまっています。お正月に新春というのもそうでしょう。新暦1月1日に迎春と言って梅の絵のあしらわれた年賀状をもらっても季節感はチグハグですが、旧暦1月1日は今年は新暦2月5日ですから、梅の花が咲く頃ですね。新暦の2月4日が立春でしたから、これで辻褄が合います。

ハイブリッド暦

新暦と旧暦のどちらに優劣があるというわけではなく、そもそも役割が違うものとして、双方の良いところを取り入れるのが良いと僕は考えています。現代人がリアルとSNSを同時に生きるように、新暦と旧暦の二つの時を行き来するのです。

二つの時間あるということは、二つの世界があるとも言えますから、この世はパラレルワールドです。暦に関しては、イスラム暦やチベット歴などもありますので、多重時間の多重世界です。

先に述べたように、日本の季節感に会うのは確実に旧暦です。日本の四季に合わせて改良が加えられてきた暦ですから当たり前です。新暦には太刀打ちできません。

旧暦は月の動きと連動しており、1日は新月、15日前後に満月というように、自然の営みに沿っているのも特徴です。日付が月の動きと連動するということは、潮の動きも当然一目瞭然です。

一方の新暦は一年365日でシステマティックに時を刻みますから、ビジネスや教育などの機械的な管理を要する社会においては確実に便利でしょう。世界の共通言語でもありますし。新暦は4年に一度うるう年で1日増えるだけですが、旧暦では数年に一度うるう月があって一年が13ヶ月に増えますから、管理は少し複雑になるかもしれませんね。

明治に新暦が急遽導入されたのは、うるう月によって役人の給料を1ヶ月多く払わなくてはいけないのを避けるためとも言われています。

流れる時間と循環する時間

ビジネスでは新暦を生き、自然と対峙するときは旧暦を生きる。相手がたの言語や文化を知っていることで、外国の方とより親密なコミュニケーションが取れるように、採用する暦によって世界を見るときの深度が変わります。

また、新暦と旧暦という二つの暦の中にも、まっすぐに流れる時間と、円を描いて循環する時間があると見ることもできると思います。

まっすぐに流れる時間とは、まさに歴史年表のごとくに、過去から未来へと積み重なっていく時間です。

時間と言ったらそれだけだろうと思う人も多いのかもしれません。

しかし、月の満ち欠けは毎月繰り返しますし、地球が一年かけて太陽の周囲を公転します。

景色を眺めて見ると、春に芽吹いた新芽は若草色に山を染め、夏にはその緑が深くなって行き、秋には赤く燃え上がり、冬には大地に落ち葉の絨毯を敷き詰めます。この営みが毎年毎年続きます。

柿のように隔年でいい年わるい年が繰り返すように、数年単位の周期を持っているものもあります。

これらの時間は円を描いて循環していると見ても良いのではないでしょうか。

この流れる時間と循環する時間が合わさり、様々な螺旋形が重なり合っているのです。

木々は前述のように葉の営みを循環させながら、まっすぐ流れる時間とともに大きく成長していくのです。

さて、ちょっと長くなって来たので、続きは明日にいたします。明日以降じゃなくて、明日です。神在月の旧暦10月の1ヶ月間は毎日日記のようにnoteを更新していこうと思ってます(言っちゃった!)。

というわけで、次回も時間の話を続けてみようと思います。

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