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正しさと信頼

東京での一人暮らしをやめて実家に巣籠もり生活をしている。暗黙のうちに風呂洗いは僕の担当になった。毎日のルーティンに風呂洗いが加わり、風呂洗いそれ自体にも手前側から洗うとか何プッシュするとかいったルーティンが組み込まれていったのだが、最近母の買った洗剤がそれを変えた。時代の流れからすると遅いが、どうやらスポンジで擦らなくても良い洗剤らしい。プッシュして少し待って流すだけである。こんな画期的なルーティンなど無かったし少し面白かったから母にこのことを話したが、母はスポンジで擦らないのが気に入らないらしく、怪訝そうな表情を返してくれた。

今まで信じ込んでいた世界が「正しさ」ではなく信頼で成り立っていることは結構あることに気が付いた。泡の出ない食器用洗剤があれば母は毎日が不安になるし、鍵の無い玄関ドアがあれば泥棒の脅威の中に生きるハメになる。言い換えればそれは論理と直感という二項対立になるが、その前提には「信頼」という人間からは切っても切れない存在がある。いまだに電気自動車には取って付けただけの電子音があるし、ゴミ焼却場の煙突から出る無害な水蒸気達はヒーターで熱せられて可視化されていく時代である。そういった全ての無駄はよくわからない理由で根付いた常識とそこに見出された信頼によって促進され続ける。「正しさ」という事実に「信頼」という指標を結びつけるためには、信頼の持つ本性を炙り出すか、さもなければ世界で大ベストセラーとなった書籍『FACTFULNESS』を熟読する他は無いだろうが、ここでは前者を選択する。

現代社会の四象限

今更ながら先日Newspicksに登録した。落合陽一氏が出演する番組で「信頼をアップデートせよ」という議題の回があった。その中で描かれたのが下の四象限である。

プレゼンテーション1

かつて人々は私的な個人資産を求めて生きていたが、民主主義の台頭によって公共サービスによる公共の資産なるものが社会を支えてきた。少なくともここに「美的感覚」ではなく「金」の指標が入っている限り建築家やアーティストが目指すような理想的な造形は生まれ得ない。江戸から続いていた小さな社会はSNSによって公共領域に引き延ばされ、拡張家族となってより広範な信頼集団が広がるが、ここで大切なのが必ずしもシェアリング・エコノミーは金を必要としない点だ。シェアは信頼によって成立する生活体系であり、金を積まれるからシェアをする訳ではない。現代において信頼の担保はローカルな存在に限らず、テクノロジーや制度に頼ることが多く、今まで考えられてきた通念としての信頼はアップデートされ、金以上にこれからの社会の前提条件になっていくだろう。メルカリやヤフオクは信頼のおける会社とそのテクノロジーによって見ず知らずの人と安心して取引できるのであり、スマホ画面に表示された金額のみによって成立しないことは理解しやすい。

現代社会が持つこの四象限は、この社会が金と信頼の間のどこかで成立している事実を気づかせてくれる。信頼はSNSやそのテクノロジーによってアップデートされ、金もアップデートされてキャッシュレスになることで信頼の重要性を引き上げる。相互依存的に信頼と金とが共進化し、アフターコロナも相まって新たな社会が始まる。

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ペットボトルを信じられるか

い・ろ・は・すは日本で最も成功したペットボトル飲料水ブランドである。環境に貢献している事をパッケージによってではなくペットボトルを潰して容積を小さくする行為によって示し、それ自体がブランディングとなり、い・ろ・は・すのアイデンティティになった。だが、その中身を安全だと保障できる材料になってはいない。押し潰せるペットボトルなら水の中の細菌が死滅する訳ではないし、CMで樹木からペットボトルを取り出して見せた所でそれは変わらない。だから結局パッケージラベルを張って信頼を視覚に訴えかけるハメになるが、大抵の人はそんな物を見向きもせずに一気に飲み干すだろう。

コカ・コーラのシルエットはコカ・コーラの味を保証しないし、高級なワイングラスも同様である。ブランディングは正しさではなく信頼を獲得するために存在し、正しさの立証は論理ではなく直感によって瞬時に行われるのである。SONYのイヤホンなら重低音の効きが良さそうで、appleのタブレットなら快適に動くだろうという信頼。SAMSUNGのスマホならバッテリーが爆発しないだろう…とはならないが、その圧倒的なテクノロジーとデザインによって彼らは信頼を取り戻していて、その中には僕も取り込まれてしまっている。正しさは後発で、信頼の方が先発だ。同時にそれは直感が論理に先立つことを意味し、最近のノートPCのCMの多くはそれを狙っている。

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建築的信頼

建築は信頼と密接に結びついている。東京タワーが東京という場所を明確に担保し、教会が西欧の街を担保する。立派な駅舎があればその街は信頼に値する場所だと誤解してくれるかもしれないし、実際に誤解ではなく駅空間の抱える街の中心としての豊かな空間性質が街の信頼を保っている建築は世界に数多とある。建築に可能な信頼の担保は、信頼の反対側に金の評価指標がある現代社会においては実現が難しいが、信頼の無いところに経済は存在しないし、それはまちづくりも同様である。

デザインに凝れば信頼が訪れる訳ではないし、その逆も違う。その建築の持つ中身と佇まいが街の中に溶け込むかどうかが重要なのであり、パブリックな広場としての建築に自然と人が集まってくる。現代人はスマホに依存し、かつてのコミュニティを喪失してより多くのコミュニティを同時に重ね着している。これは分人主義とも呼ばれるが、現代人のアイデンティティはその精神と身体の重なりではなく、多くのコミュニティの重なりによって担保され、いくつもの仮面を巧みに使いこなすのが現代人であり、それは悪いことではない。そしてそこに対応する建築は「場所性を規定しない自由さ」だとか、「使い方を解放された空間の起伏」だとか言うような学生の空論によってではなく、純粋に信頼されることだけが求められる。形態ではなく信頼である。そこが圧倒的に安全だと分かった瞬間に現代市民にとってパブリックな空間となるのだ。

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アベノマスクに信頼はあるか

戦後最悪のパンデミックに戦後最悪の施策が重なった。国民にマスクを配る。これ以上にバカげたアイデアは見つからない。シャープが作ったマスクには注文が殺到してその倍率がコンサートのチケット並みになったのとは裏腹に、誰もアベノマスクなど付けないし、開封すらしていない。その400億円はただ日本政府の安全担保の口実のためだけに使われたのだ。感染した人は自己責任だと、日本政府はマスクを配ったぞと言うために。

アベノマスクに人気が無いことはあまりに自明すぎるが、なぜだろうか。きっとマスクの性能という意味での論理的な正しさはあっただろう。中国製の透け透けのマスクに金を使うくらいなら政府の配るマスクの方が圧倒的に優れている。例え安倍晋三が嫌いでも感染するよりはマスクをつけた方がいい。…だがアベノマスクに圧倒的に足りなかったのは政府に対する信頼である。それはメディアが過剰に煽った信頼喪失の反映であり、そもそも投票率が示すような政治への信頼の反映でもあるが、マスクそれ自体よりメタメッセージとしてのアベノマスクであったために誰もマスクを感染予防としてではなく、小顔を計るメジャーとして使ったのである。

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信頼の価値

これからの社会はより信頼が重要になってくる。どこに行けばセキュリティが保たれているか、感染しないか、料理がおいしいか、運命の人と出会えるか。それらは情報社会の中にレーティングされ、レコーディングされ、地図アプリの中に、コミュニティの中に、テクノロジーそれ自体にさえも信頼が蓄積されていく。「出会い系サイト」が「マッチングアプリ」へと名前を変えるだけで信頼を得て、「新たな通貨」よりも「お金3.0」と呼んだ方がキャッシュレスが信頼を得るのと同様に、私たちは何がしかの理由を付けてまでも信頼を求めている。これからはAIだとか5Gだとか叫ばれているが、そのどれをとっても何よりも先に信頼が必要であり、必然である。手の平に収まる音声アシスタント達は日々ジョークを飛ばし、相槌を打ち、優しく語りかけてくる。それは信頼を得ようとする彼女達の意思であり、人間の本性の反映でもある。

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