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美しさという言語

僕は、美しさに対する忠誠心を高く持っている。機能だとか効率だとか正しさだとか、そんな事など受け付けない程に高められた力強さが確かに存在するからである。それはもはや形態の副産物であることを超越した言語体系であり、それこそが人間が暗黙知のうちに追い求めている共感覚なのである。

丹下健三

美しきもののみ機能的である。彼のこの言葉には真理が込められている。つまり、どれだけ合理的な建築を作ったとしても、それが美しさを放っていなければ誰も使わない空虚にしかなり得ないということだ。ここでいう美しさは手段としてしてではなく、総体としての目標に掲げられ、複雑な構成や構造、環境工学や予算内に収める工夫(これについては怪しい…)などが織りなすデザイン・ビオトープこそが彼の追い求めている建築なのである。

代々木体育館の立面図を見る。そこには1960年代の空気感は微塵も感じられず、どこか近未来的で、同時にどこか東大寺大仏殿のようにも感じられる。明治神宮が隣接する場所に最も相応しい形態が、丹下健三の脳内フィルターによって洗練され、最も美しい建築を誕生させたのである。

スティーブ・ジョブス

近年のappleの製品発表会では"incredible"という単語をよく聞く。1つのiPhoneを発表するだけで4.5回は連呼しているだろう。経営のプロとしての社長ティム・クックは何も間違ったことを言っていないが、そのプレゼンの方法がより"incredible"な体験を阻害しているという大きな自己矛盾を孕んでいる。

かつてのスティーブ・ジョブスのプレゼンでは、"incredible"という単語は登場しなかった。彼は経営ではなく、感情に訴えかけるプロだったのだ。どれだけ"incredible"だと感じていても、それを言語化した瞬間にそれは"incredible"以上の価値を提供出来なくなる。だから彼は全てのプレゼンを論理化できない部分に集中させている。例えばmacbook airに向かって「こんなに薄い、軽い、美しい」と言うよりは、紙封筒の中に仕込んだmacbookを見せる方が手っ取り早いし感動を与えられる。

ビャルケ・インゲルス

彼の作る建物は明確なデザイン・ダイアグラムに基づかれているが、そこに美的感性が入らない訳ではない。正しいプロセスが美しいデザインを作り出すとは限らないが、彼の審美眼は常に健在である。どれだけ合理的でも美しさが無いのなら、それは正しさの基準から遠のくことを意味するのだ。コペンハーゲンのごみ焼却場のデザインに彼の美的感性が入らないのであれば、誰もごみ焼却場でスキーを楽しもうとは思わなかっただろう。街のアイコンになったあの巨大な山が美しいからこそアクティビティが起こるのである。

美の信仰

時代が美しさを変えることはよくあるが、美しさが時代を変えることもある。例えばトルコ・イスタンブール最大の観光名所ともなっているアヤソフィア。ヨーロッパの世界史を鑑みるに滅亡と再生の繰り返しが多い印象を受けるが、このアヤソフィアは違った。その壮大な建築は宗教や人種、文化をも超えてイスラム教のモスクからキリスト教の大聖堂へと受け継がれたのである。それはロシア正教会にまで影響を与え、現代になって博物館になったかと思えば、今年にモスクへと戻った。圧倒的な美しさは戦争をも免れて後世へと受継がれるのである。

また、新大陸を発見したのはコロンブスだが、その原因を作り出したのは美しさへの信仰であった。ティリアンパープルと呼ばれる紫色に魅せられた女性達が、その色を追い求めて地中海を探し回らさせたのである。船乗り達はただ評価されたいがために船を出したのだが、結果的にそれが新大陸という色以上の大発見を誘発したのである。美しさへの信仰は、海をも超えさせる原動力を作り出す。

美しさに惹かれて旅をする

僕は旅が好きだ。その理由は単純で、世界中にある建築の美しさを自分で体得したいからに他ならない。英語の勉強だとか、旅行アーカイブ作りだとか、勉強をしに行きたい訳では毛頭ない。だから僕が設計をする時は、自分が世界中で感じてきたのと同じ、あるいはそれ以上の圧倒的な美しさを作る。僕にとっての建築学的な正しさは、圧倒的な美しさが存在しない限り、成立しないのである。

周りの学生を見ていると建築の正しさばかり追求していて何も惹かれない今日この頃である。日本各地を旅して色々な感動的空間を体感しているのにも関わらず、いざ自分が設計する時には美しさを二の次以下に据えているのが心なしか信じられない。美しさこそが建築の機能を成立させてくれるのに…。

血液型/感情/胃の調子

ネタのようだが、こういう個々人の性格の差異は無視できないと思う。血液型については正直分からないが、僕のような几帳面な人は、ボールペンと紙が平行に並べられていないと直したくて仕方なくなる。美的感覚フィルターの網の目が細かいからこそ、ありとあらゆる物に美しさを求めてしまうのだろう。美しさという価値基準自体、すぐに揺らいでいくことは誰でも体験するだろう。その時の天気や感情、あるいは胃の調子が悪いとかしょうもないことで美しいものが醜く見えてくることは多い。

人間は感情の生き物だから、常に固定化された美的感覚は保つのが難しいだろう。「美しさ」とは一概に言えない所にも、美しさの本質は潜んでいる気がする。その一瞬一瞬が、一期一会の時間であり、自分であり、美的感覚なのである。

美しさは言語

福沢諭吉は「言語は道具」だと言った。だからこそ言語を学べば人間はもっと豊かに、協調性を保ちながら生活することができると。つまりそれは言語は原因であって結果ではないことをも同時に意味している。学ぶこと自体は大した意味がない。その学びを生かす所にこそ本質があるのである。それと同じように、僕は美しさも道具だと考えている。

確かに美しさはそれ自体が目的となり、結果であり、最大の成果物であるかのような扱われ方をしている。そして実際に美しさのみを追い求めた建築は世界に数多と存在し、見る人を魅了させようとその追求に勤しんでいる。だが、美しさの本質はその原因的なあり方に潜んでいるのだと僕は思う。美しさが原因となって建築の意味を共鳴させ、単なる付加価値を超えた、総体的な価値を生み出すことができるのである。まるでそれは楽器のように、それ単体の見栄えの美しさがより大きな目に見えない美しさを奏でるのである。

「美しきもののみ機能的」。繰り返すが、丹下健三のこの言葉は真理を付いているように思える。美しいものを作らなければ建築の価値は半減する。美しいからこそ、まず人々がそれを自分たちも使える建築だと認識し、初めて建築の評価を与える土俵に立つのである。レム・コールハースによれば美しさは副産物として生まれるそうだが、恐れ多いながらもそれはきっぱりと否定しなければならない。美しさは原因として存在するためにまず初めの前提条件として存在しなければならない。なにせ、コルビュジェの遺作ロンシャンの教会の建築材料には光が含まれているのだから。

『学問のすゝめ』が言語の価値を提示して人々に学問の本質を教えたのだとすれば、『建築のすゝめ』では美しさの価値を提示して、建築の本質を見いださなければならないのではないだろうか。

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