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建築像について考える

僕は様々な場所に旅をしてきた。日本では7県以外は全て行き、海外は台湾に始まって短期留学でスペインとフランス、ニューヨーク、デンマークとスウェーデン、タイ、ロシアからオランダ、ベルギー、ドイツ、スイス、イギリス、イタリア、中国までの弾丸一人旅。その中で出会ってきた様々にも程があるほどの建築達に魅せられて今日までも建築が好きであり続けている。その中で得られた知見の中で、僕が作りたい建築像について考える事は今まで無かったように感じられる。建築像を考え始めると着地点を探すのに一苦労しそうだが、確実に言えるのは僕の建築像は様式などといったものに帰着することはないということだ。例えそう評価されたとしても、僕は様式に従順になる行為ほどつまらない事は無いと固く信じている。そしてそれは、僕が21世紀の今ここに生きているからこそ言えることである。

様式の不在

建築において「様式」がもたらしてきた形態的進化の影響は計り知れない。なぜなら建築家は様式を基盤にして自分の意匠を試みることができ、例えそれが批判されても様式がその意匠に対する責任を受け持ってくれるという安心感もあっただろう。そこにはある種の最低保証が用意されていたのである。古代ギリシアではその様式(オーダー)が最優先された結果、到底使い物にならない巨大な階段が出現した事もあったが、そこまでしてでも様式は神聖化され、正当化され、権威主義の外観として長い歴史の中で確立されていったのである。

1900年に入った頃、アメリカの建築教育ではボザール様式について叩き込まれていたようだ。西欧輸入しただけの国にとって、モダニズムが台頭しつつあった建築界の中で反芻が起こることは容易に想像できるが、ボザール様式こそが建築家が作るべき崇高で権威主義的で正統な建築造形だと考えられていたのである。その後半世紀にわたってニューヨークではゾーニング法によって必然的に形が決まっていくことになるが、その中でもボザール様式の影響は拭えなかったのだろう。敷地の上方拡大運動に尽力したマンハッタニズムの中にもボザール様式の片鱗が表出し、エンパイアステートビルのような様式ばったスカイスクレイパーが完成していったのだ。

ところが現代、いわば様式と呼ばれるものは消失したと言っても過言ではない。これはTED talksでマーク・クシュナー氏がプレゼンしていた事だが、情報社会の浸透によってありとあらゆる意匠が地球上のメディア上で平準化してしまうのである。つまり、モダニズムとポストモダニズムのような二項性の傾向が行ったり来たりの往復運動を繰り返すことは歴史上何度もあったが、その両極に触れる振り子が二重性をもって同時存在することになるのだ。instagramのフィードでザハ・ハディドの圧倒的な造形美を見たすぐ下にロバート・ベンチューリの名作があり、その下にはまっさらなコンクリートの箱があったりする訳だ。いまや様式はあなたの指と共に下から上へと消えていく。

意味主義はロマン主義の反芻か

様式など無い現代において、建築界隈で暗黙的に求められている造形意思があることには誰もが気付いている。すなわち現代建築には、ありとあらゆる造形の中に理由、意味、必然性を求められている。ただ3次曲面を作りたいだけでも、「流れ」だとか「コンテクスト」だとか「オマージュ」だとか、何かしらの理由を付けなければならないのだ。もちろん正当的にその本来の意味を顕在化した建築は数多とあって相応の評価を得ているが、あからさまな造形意思に無理やり意味主義を適応されて評価の埒外に置かれている建築が中には見受けられるのも事実である。

例えば隈研吾氏は日本国民の誰でも知っている建築家なのだろうが、同時に彼は誰でも簡単に批判できる建築家としても有名である。だが彼に向けられた批判は大半が、批判者側の意味主義に傾倒した洗脳状態から紡ぎ出されている事は忘れてはならないだろう。彼には彼なりの正義がある。側溝のグレーチングを建物に貼ってみたり、木材を斜めに串刺ししてみたりする彼の(悪趣味な)作風を意味主義のみに当てはめて批判するのは一方向的すぎる。なんだか分からないけどオシャレ、よく分からないけど高級感ある…といった雰囲気程度にしか一般の人は建築を見ていないのだから、ただ雰囲気さえ演出できれば良いのだろう。その商業需要に最も適応できる建築家が隈研吾氏である。彼は東大の講演で、建築の中に「不純さ」を取り入れることで作り出される美しさがあることを発見したと仰っている。その不純さを土地の風土にまで落とし込んで彼の感性をドライブさせるのが彼の強みであり、負ける建築なのだろう。

大学の設計課題ではロマンなどという単語はあまりに使いづらい。配置、平面、断面、材料までもが全て明確な論理的理由に裏付けされなければ評価されない場合が多い。建築家のロマンを表現する隙さえ与えられないまま、学生はヒシヒシと完全に論理化された意味のある造形を探すことになる。確かにそこで得られる経験は大切で、とある服飾デザイナーがいうように個性などと言う前にそれの何が良いのかを論理化して自分の知恵にすることの方がよっぽど大事という意見もある。また、白井晟一氏は「貧弱な個性なら出たら困る。僕は歴史の追体験という話をよくするが、自分の個性・クリエーションと言う前に歴史に謙虚に、自分をいつもそこに戻して反省することが大事だと思う」とも仰っている。

だが、全ての造形が意味主義に還元されてしまうのなら、それはロマン主義に陥るより悲惨である。ロマン主義の反芻として意味主義がある訳ではないが、建築家の内から湧き出てくるアーティスティックな感性を育てるにはロマンという単語が孕む怖さを打ち破る教育も必要ではないだろうか。

アーティストとクリエイター

建築家には二種類いる。それはアーティストとクリエイター。前者は内から湧き出る感性に形を与えて想像し、後者は外から与えられた制約の中で最適解を創造する人間である。前述したロマン主義と意味主義の二項対立はこのアーティストとクリエイターの二項対立にすり替えられ、これは日本に必要とされている建築家像が後者であることを意味している。

社会にとっての建築家はアーティストだが、建築家にとっての建築家はクリエイターである。お互いそう思っているのにクリエイターだと思っている建築家自身が、社会が思うアーティストを大幅に越える。これが社会と建築家が抱える祖語の本質だと感じる。自分をクリエイターだと認識して取り組んだ設計は、本当はただアーティストになりきって作りたい理想を優しく穏やかに「でっち上げた」に過ぎない。そして結果的に意味を後付けしていって社会を納得できる程に口が達者なペテン師になれた建築家が勝利するのである。クリエイターを突き詰めていくと、みんなアーティストになりたいけど口外できない不完全燃焼に陥っているのである。

ルイス・カーンをアーティストに分類する人は多いと思うが、彼はあくまでもクリエイターとして建築に取り組んでいたと感じる。彼は「建築の天性」を顕在化させるため、その建築の存在意思に生命を吹き込むために設計をしていると述べた。同時代の建築家と比較すると彼の作品はそれほど革新的では無く、むしろ古典的と呼んだ方が相応しいほどに近代建築家という枠組みからは外れているように感じられるが、彼は結果的にできあがる物が建築でありさえすれば、それがトレンドを外れていても気にしないのである。それはアーティストとしてではなくクリエイターとして取り組んだ真の建築家である彼だからこそ考えることができるのだろう。

「建築の天性」。それすらも彼のペテン師としての為せる業かもしれないが、造形意思を自分ではなく社会でもなく、建築そのものに置く建築家はそう多くはない。ルイス・カーンのような設計態度は建築の造形を考えるに当たって、またアーティストになることを躊躇している建築家にとっても見本となる。テクノロジーが造形を凌駕しつつある現代において何が正解なのかは誰にも分からないが、先人から得られる知見が間違いなく大きいことだけは間違いない。

https://www.mirainoshitenclassic.com/2017/02/arichitecture.html

技術発達と造形減衰

全ての造形には意味がある。これは確実である。そして大抵の場合、時代の技術の最高傑作の中に意味が生まれることが多い。ゴシックアーチはキリスト教の急激な拡大によって自然淘汰されてアーチ構造の極限状態に到達し、ルネサンスは造形意思こそ古典芸術であるが、それを後押しするための技術には目を見張るものがあったし、半世紀前のRC建築に出てくるリブは意味と造形が同時に出現し、そこには合理的な美しさも備わっていた。だが最近のRC建築はコンクリートが高強度が故に構造躯体による造形意思は見えてこないし、石造建築はコンクリートにとって代わられたも同然だから、ゴシックでみられた制約条件も全て高強度コンクリートがまっさらな姿を呈して受け継いでしまったのである。

つまり、時代が上って技術が発達すればするほど、建築における造形意思を見出しづらくなるのだ。「全ての造形は合理的でかつ美しく、『形=働き』のシンプルな本質に立ち返るだろう」などという熱烈な原理主義は現実には通用しない(ここでいう美しさは単調ではない新しさ)。僕自身、造形の根本にある普遍的な建築原理を探していたものの、技術発達と造形減衰が比例関係にあることを知ってその追求を諦めた過去があるため、このトピックには特に興味があった。もはやプリウスを美しく見せている要素はそのエコロジカル・テクノロジーではなく、その表面を構成するパッケージデザイン以外には見当たらないのである。それでは建築も同様に、パッケージデザインにしか造形意思を吹き込む余地が無いのだろうか。

ここで注意しなければならないのが、技術発達に伴って完成させることができる奇抜な造形ではなく、技術発達によって材料力学的に合理的な形態が顕在化されなくなることを危惧している点である。力学のラインを造形意思として強引にみせるのではなく、あくまで経済的で効率的な構造によって引き起こされる造形について考えた時にそれらは素材そのものの強靭さ故に、単調な姿に落ち着いてしまうのである。

バズるとは何か?

ところでバズるという単語をよく聞くようになった。タピオカだとか、半沢直樹だとか、ポケモンGOだとか。これは大衆の中で有名になること指す言葉だが、実はその本質は現代においては昔の流行語大賞などとは状況が違っている。SNSが普及して変わったのは、個人の手元が個人の好きなものに染まっていく縮小されたコミュニティが広まったということである。つまり、現代において全国的にバズったように感じられるトレンドでさえも、実はそれを知る愛好家、ファンの間でしか広まっていないという事実である。タピオカなんて女子高生とその周辺でしか実際には広まっていないし、ゲームをやらない人にとってはポケモンGOで人が集まる様相を見て不思議がるだけだ。

建築に対する社会の関心も、その断片としか捉えられていない部分があるだろう。例えば僕は超高層ビルに備わったガラスの美学に心惹かれているが、それに共感してくれる人は建築学生の中にも相当少ない。これの拡大版として建築と社会の関係が置かれているように感じられる。建築好きにしか分からない高尚な哲学に気を取られ過ぎて、一般人の誰も気を留めない建築に変わり果てた建築は数多と存在するが、そんな建築でさえも建築界隈ではバズっているなんてことだって当然ある。大衆受けする建築とマニア向けのバズる建築評価は異なって然り、そのいずれもバズった建築と呼ぶことができるのである。

大衆の間でバズるのか建築界隈でバズるのか。どちらかを考えればどちらかを捨てることには直接繋がらないものの、そのような傾向は強い。例えば現代アートの価値は共感されない所にある。「これは何だろう?」「何を伝えているんだろう?」と見る側を考えさせ、共感なんかできっこない向こう側の世界の一片を見せる所に現代アートの価値があると思うが、現代アートがバズった瞬間にそれはアートとしての価値を根本から否定してしまう。バズらないための現代アート作品にいいね!がたくさん付いたことは逆説的に最大のアイロニーをハートマークと共に提示されたことになるのだ。建築にも同様の価値観はある程度存在していて、バズることを目的に据えること自体が自己破綻に陥る可能性を孕んでいるのである。結果的に建築は情報の海に消費され、寿命は短くなる一方である。では建築界隈だけでバズればいいのかと問われれば、それだけは断じて許せない(ここに僕自身の悪いクリエイター素質があるのだが)。

僕は建築の保存運動には基本アンチである。社会に通用しなかったから使われなくなった建築、言い換えれば、「建築の天性」を見出すことの出来なかった設計者によって建てられた哀れな建築を保存して何になるのか。保存運動は建築界隈の最も愚かで独断的偏見が蔓延している最も分かりやすい例である。そこに住民の愛着が住み着いているのならまだしも、近代建築に重要な布石を落とした挙句、社会にとっての必要性までも落とした建築は無用である。バズる怖さはある種の宗教的信仰を生み出してしまう点にあるのだ。

「愛のある」建築をめざして

ランボルギーニのドアが上に開くことに何の意味があるのか考える人はいない。それは自動車好きにとってのロマンだからである。それに尽きる。愛着の湧く物には『意味』よりも『ロマン』が先立つのである。全自動運転が手段としての自動車産業を席巻する中で、自動車は手段ではなく目的に成りつつある。その中に、圧倒的なロマンを有した自動車があるからこそ、そこに愛着が生まれるのである。最近のTOYOTAのCMのキャッチコピー「FUN to DRIVE」はそれを大きく物語っている。

結局のところ、建築に必要なのは愛着である。「愛」は中村拓志氏が出した最初の書籍名にもなっているが、人間と建築がコミュニケーションを取れる根本原因には「愛」しかない。もちろん機能を必要として人間は建物を建てるが、そこに長くいたいと思うかどうかで建築の存在意義は確立されていく。場所に愛着を宿すのが建築の役割なのだとすれば、それを設計する建築家の役割は、建築に天性を宿すことに他ならない。建築の中にシザースドアを見出して昇華し、建築を手段ではなく目的として人々が使い始めた時、建築は圧倒的なロマンの上に成立する娯楽的必需品として社会に定着していくことだろう。それこそが僕の目指す建築像である。

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