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反復される分断

ロンドンのスタートアップ企業「Notpla」が開発しているのは「海藻を原料とした使い捨てプラスチック包装の代替品として使えるものseaweed-based replacement for single-use plastic packaging」。
これは海洋で栽培が可能なので増産するために地上の農業を圧迫することはなく、人が食べても平気なので海藻由来の包装に入った調味料をそのまま料理に放り込んで調理もOK。現段階ではロンドンのマラソン大会で、ランナーがレース中に海藻由来の包装に包まれた水分を受け取ってそのまま口に入れて飲んでいるとのこと。

「Notpla」という安易な社名で思い出すのが、代替肉を開発している「beyond meet」。両者に共通しているのはプラスチック・フリーや動物性タンパク質・フリーといった、(やや強い表現だが)排除の思想だろう。プラスチックや動物性たんぱく質は地球環境に負荷をかけるので使うことが望ましくない。だからそうした物質から自由になるための新たな発明が必要である。私たちは石油や動物に頼らなくても、テクノロジーで同じことが実現できるんだ、そんな自負心が伝わってくる。その自負心を支えているものが、排除してしかるべき対象とされた石油や動物だ。もちろん石油や動物に罪があるのではなく、環境問題を悪化させ地球の負担になるという理由がその根拠になる。

それらは概ね正しいだろうし、今後の世界の流れがその方向で行くことはほぼ間違いないだろう。いかに環境への負荷を軽減させながら私たちの生活水準を維持・向上し、サステナブルな文明を築いていくのか。それが我々人類に課せられた使命なのだ。欧州のトレンドはその路線を邁進している。

それでもやはり引っかかりを覚えるのは、こうした排除対象となる敵を定めることで秩序やルールを確定し、そのレールに乗る人たちを味方に取り入れようとする西洋社会定番の行動だ。最近の事例で言えばアメリカのバイデン大統領が民主主義陣営と権威主義陣営をきっぱり分けたように、20世紀の事例で言えば第二次世界大戦下における自由民主主義vsファシズムや、冷戦下での資本主義vs社会主義といった、分断や排除を起点として思想や行動を作ろうとする姿勢が何度も繰り返されている。そうした「大きな政治」の縮小再生産を新規ビジネスの中で行おうとしているのが、「Notpla」や「beyond meet」ということもできるのではないか。

ところで最近『人間狩り』(明石書店)を読んだ。この本で描かれるのは、西洋文明の歴史上で反復されてきた、人間を「狩る」ことの様々なヴァリエーションである。「狩る」と一口に言っても、それは時に奴隷を捕まえるための捕獲行動であったり、異端者を追い立てるための排除行動であったり、移民を排斥するための暴力行動であったりする。そのような敵と味方の境界線が恣意的に惹かれることで発生する独自の権力構造を、それが表象されてきた歴史的事例とともに見定めようとする。それが『人間狩り』で著者が目指していることだ。

手法や思想は異なれど、その歴史において一定数の人間への「狩り」を絶えず行ってきた西洋社会。それは、常に同じ人間同士を分断するための境界線を引いてきた歴史と言い換えることもできるだろう。ひとたび「狩る」側と「狩られる」側が分けられると、「狩る側に回るのでなければずっと狩られる側のままであるという選択肢しかない場合、共食いに向かう力学が発展する」ことになる(p210)。

この力学により、支配される下位集団にまで主要な捕食関係が伝わり、無限に繰り返されることになる。これこそが、被食者集団を分割したり分裂させたりすることの戦略上の根本問題である(p210)

要は「狩る」側になった集団はその地位を守ろうとし、「狩られる」側になった集団は「狩る」側になろうとして自集団に新たな分断線を創り出す。そうして新たに「狩られる」側が生まれ、支配関係の縮小再生産が繰り返されていく。



昨今流行りのSDGsにしても、地球に優しい道順でゴールへ向かいましょう、別の道はよからぬ道ですよ、と要はゴールへ向かう進路を特定の向きに定めおいて、変な方向には行かせないよう強制するパターナリスティックな分断の態度である(goalsが、sがついた複数形になっているのは「多様性」が昨今の政治における重要タームだからであって、基本的な姿勢がパターナリスティックであることに変わりはない)。


政治や戦争にしても、気候変動やSDGs、そして「Notpla」や「beyond meet」といった新興企業にいたるまで、正義と悪の対立を創出し、躊躇うことなく一方の陣営へ引き込もうとする強い意志がそこには感じられる。「狩る」側と「狩られる」側を設定すると、「支配される下位集団にまで主要な捕食関係が伝わり、無限に繰り返される」。そのあまりの単純さというか無邪気な反復に、たとえ彼らがどんなに正しい道を突き進んでいようとも乗り切ることのできない一抹の思いを抱いてしまうのである。


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