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好き嫌いしちゃダメですか

好き嫌いをしちゃいけないってよく言われた記憶がある。

私は子供のころブロッコリーが嫌いだった。
"ブロッコリー"という名前を知らなかった幼少時、私はそれを"森"と呼んでいたらしい。

その森(というより木か)の"葉っぱ"の部分は好きだったのだが"幹"の部分が嫌いだった。今でも好きな方ではないけれど…。


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「好き嫌いをしちゃいけない」っていうと、
嫌いなものはもちろんだが、好きなものもあってはいけないのだろうか
なんてことをふと考えたことがある。
まことにひねくれた考えである。

なんで「嫌いなものをつくっちゃいけません」ではなく、
「好き嫌いしちゃいけません」なんだろうね。
慣用的に使われすぎて、違和感も無くなってしまっているんだろうけど。


私が未だに大人になれていないのかもしれないけど、
好き嫌いって、あってもいいんじゃないかと思う。
いや、むしろあった方がいいとさえ思う。

嫌いな食べ物があるからこそ、好きな食べ物がより美味しく思えることってないだろうか。

表現し難いが、マイナスがあるからこそプラスが際立つのであって、
嫌いなものがないと その分、好きの程度も相対的に下がってしまう、なんてことないだろうか。

つまり同じ"好き"でも、嫌いなものがあるからこそ"好き"の度合いも増すんじゃないかって、そんなことを考えてしまった。


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食べ物に限らず人付き合いでも、
好き嫌いをスマートに表現する工夫は必要だと最近思うようになった。

ブロッコリーを皿の端に寄せておいたら、
誰から見ても「この人ブロッコリー苦手なんだな。」って思われてしまう。
人付き合いで言えば、ある一人とだけ接し方を変えるようなものだ。

これはスマートではない。
(好き嫌い自体がスマートではないという考えは置いておいて…)

食事のお作法とやらでは、
嫌いな食べ物が出てきたら「できるだけ食べる」のではなく「箸をつけない」のが正解らしい。
途中で箸を置くのは「食べてみたらマズかったから食べるのをやめた」という意味になるらしい。はじめから食べないことで「もともと苦手なんです」という意思表示をする意味があるとか。

このマナーの是非は別として、
具体的にスマートな人付き合いの例を出すことはできないが、
その表現だけはせめて大人っぽく平和的にありたいな、
なんて また話が別の方向に向かっていく。

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