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ユダヤ人の受難のパワー(なぜロスチャイルド家は誕生したのか?)12

自由フランスとともに

戦争はパリの五代目当主、ギー・ド・ロスチャイルド男爵にとっても試練だった。

動員され軽機甲部隊の中隊長になったギーは圧倒的なドイツ軍に追われ、いったんダンケルクからイギリスに撤退する。

そして再びノルマンディーに上陸して部隊を再編するが、怒涛の勢いでパリに入城したドイツ軍を逃れて今度は南フランスに敗走した。

フランスは降伏して中仏ヴィシーにペタン将軍によって親独政権が設けられたが、同政府はドイツと同じく反ユダヤ政策を次々に打ち出した。

国外に去ったという理由でパリ・ロスチャイルド家のエドゥアール(1868〜1949)、ロベール(1880〜1946)、アンリ(1872〜1946)のフランス国籍を剥奪し、レジオン・ドヌール勲章の受賞者名簿から抹消して、財産を没収さえした。

つづいてヴィシー政権は1940年10月3日、政令を出して「ユダヤ人は士官、下士官になってはならない。また公職、出版、新聞、ラジオ、演劇、映画にかかわる職業から排除する」とし、さらにユダヤ人の不適性職業として銀行家を加えた。

ユダヤ人すべてに適用された法律だが、これによって金融業者ロスチャイルド一族は失職したのである。

フランス革命の前に戻るかのようなヴィシー政府の時代錯誤な反ゆだや主義に絶望したギーは、いったんアメリカに渡った。

そしてシャルル・ドゴール将軍の自由フランスに加わるため大西洋をUターンしたが、このときギーの乗った貨物船がアイルランド沖でドイツ潜水艦の魚雷を受けた。

炎上沈没する船からギーは氷点の海に投げ出され、12時間漂流して意識を失いかけたところを危うく救助される。

そしてイギリスにあった自由フランス軍の参謀部に合流、ヒトラーに反撃することができた。

終戦のときギーはドゴール将軍旗下のパリ軍政長官制のポストにあり、これが戦後、ドゴール派の人々、とくにジョルジュ・ポンピドゥー(元フランス首相、大統領)と親交を深めてパリ・ロスチャイルド家の事業の再興にも協力してもらう布石となった。

この戦争ではフィリップ男爵(※『世界一のワイン(ロスチャイルド外伝)』参照)の妻、エリザベート・シャンブル(1902〜1945)が、ユダヤ人ではないにもかかわらずロスチャイルドという名前ゆえに娘フィリピーヌが見守るなかムートンのシャトーから連行され、強制収容所に送られて死んだ。

ギーの母方の家族のほとんどもガス室で殺された。

フィリップ自身はモロッコでヴィシー政権によって逮捕され、アラン(1910〜1982)とエリー(1917〜2007)はマジノ線の戦いでドイツ軍に捕まって捕虜生活を送った。

・・つづく・・

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【参考文献】『ロスチャイルド家』横山三四郎(講談社現代新書)

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