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戦後教育を斬る!!(憲法夜話2)⑩

「一視同仁」とは何か?

教育勅語とは、いったい何であったか?

ここまで読んでくださった方はわかると思います。

教育勅語の目的はけっして反動的なものでもないし、封建的なものでもない。

それとは正反対に「近代国家」の国民を作るためのものであった。

学校の歴史教科書などには「教育勅語は儒教の教えにしたがって書かれた」とか「儒教思想と西洋思想」(例・博愛、衆に及ぼし)との混淆である」と記されている。

また、明の太祖洪武帝が出した「聖論六言」と清の正祖康熙帝が出した「康煕聖論」と並べて、教育勅語を「三大聖論」の一つなどと称する学者もいる。

こうした教育勅語解釈はいずれも途方もない間違いである。

「聖論六言」や「康煕聖論」は皇帝が人民に道徳を教え、教化する目的で出した勅語であって、道徳のマニュアルという点では教育勅語と共通しないわけではない。

だが、その道徳の内容となると、これは全くの別物なのだ。

「聖論六言」も「康煕聖論」も、ともに当時の朱子学者たちの学説の要約であった。

「教育勅語」の内容は彼らの学説とはまったくの無関係であった。

明治維新の頃の日本のは、武士に代表される「君子」と、そうでない庶民がいた。

両者は同じ日本列島の中に住んではいたが、一つの国民ではなかった。

臣と民は分離していたのである。

明治の日本が近代国家になるためには、この状態を続けているわけにはいかない。

そこで明治政府は「教育勅語」を子どもたちに徹底的に読ませ、「臣民」という言葉を通じて日本国民としての一体感を定着させようとした。

よって、教育勅語が「儒教倫理の復活を狙った」などというのは大きな間違いなのである。

教育勅語の中にあるのは、儒教などではない。

あえて言うならばそれは「天皇教」の教理(ドグマ)である。

日本最初の近代憲法を作るべく渡欧した伊藤博文は、ヨーロッパの憲法制度の根底にキリスト教があることを発見した。

キリスト教と議会政治は切っても切れない関係にある。

たとえば、デモクラシーの基本となる平等思想にしても、キリスト教なくしては生まれなかった。

宗教改革以後のクリスチャンは、信仰の原点に戻って「唯一絶対の神」の存在を強く感じるようになった。

ことに宗教改革の指導者カルヴァンは、神の栄光の前にはあらゆる地上の存在は卑小であると説いた。

ここから「王も人民も神の前には平等である」という思想が生まれてくるのである。

ところが、これに対して明治の日本には、宗教らしき宗教は何もない。

日本にも仏教や儒教はあったが、それらはいずれも宗教としての力を失っている。

かといって、日本をキリスト教団にするわけにはいかない。

そこで伊藤が考えたのが、天皇を「現人神」にするというアイデアであった。

華族も農民もみな「一視同仁」、すなわち天皇の前に臣民は平等である。

この「天皇教」の導入なくしては、日本の近代化はあり得なかった。

そして、その天皇教における最高の「教典」とされたのが、この教育勅語であったというわけである。

憲法よりも重視された「教育勅語」

ところで戦前日本における教育の中枢は、教育勅語と大日本帝国憲法にあったといわれる。

が、大日本帝国憲法さえも、教育勅語に比べれば影が薄い。

戦前の日本人に「憲法は大切か?」と問えば、否定する人はいないだろう。

「あんな法律の親玉なんて知ったものか!」という人はいなかっただろう。

だが。「なぜ憲法は重いのか?」と問われれば・・

「それは教育勅語に『国憲を重んじ』と答える人が大多数であったろう。

事実、大隈重信は「憲法は明治天皇が日本国民にくださった大事な宝物」と言っているほどである。

自由民権運動の指導者であった大隈でさえ、この程度の理解なのだから一般国民は推して知るべし、である。

かくのごとく戦前の教育においては、教育勅語のほうが図抜けて重要であった。

教育勅語こそ、日本的「アメリカ式教育」の根本教典であったというわけである。

また、それと同時に戦前の教育では「皇国史観」に基づく歴史教育が行なわれた。

神話以来の伝統を持つ日本は、世界にも類のない特別な国であり、その国王は「天佑」(神の助け)によって守られている。

この歴史教育によって、日本人は欧米文明と対峙していけるだけのプライドを持つことができるわけだが、これもまたアメリカ式教育とまったく同じである。

戦前日本における歴史学の第一人者であった那珂道世博士は「歴史教育」と「歴史研究」とは違うとずばり喝破した。

そして、博士は国史における神話教育を支持した。

戦前の歴史教育では「天孫降臨」をはじめとする神話が国史(日本史)教育の中心に据えられていた。

このような教育方針に対して、戦前においても「科学的歴史家」からの批判・反撥は強かった。

明治の歴史学は清の考証学派の基礎の上に、近代ヨーロッパの科学的歴史学も輸入されていたので、「科学的歴史家」の発言力は強かった。

だが、その科学的歴史家の第一人者、科学的東洋史学の創始者の一人である那珂博士その人が、「歴史教育」と「歴史研究」は違うと断言した!!

この人にしてこの言あり。

ゆえにそれだけ、いっそう思いのである。

歴史教育とは民族精神を確立させるためにこそ、行なわれるべきである。

その教育によって民族国家が成立すれば、それで良い。

最高の科学的歴史家であった那珂博士は、そのことを何よりも知っていた。だからこそ、博士は戦前の歴史教育を支持し、擁護したのだった。

我々日本人はこの博士の発言に注目すべきであろう。

戦前日本の歴史教育は、まさに現代アメリカにおける歴史教育とまったく同じ精神で行なわれていたのである。

つづく

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※ この記事は日々一生懸命に教育と格闘している現場の教師の皆さんをディスるものではありません。

【参考文献】『日本国憲法の問題点』小室直樹著 (集英社)

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