VRは脳

いつか『マトリックス』の世界は現実となるのか?(倉田幸信)

翻訳者自らが語る! おすすめ翻訳書の魅力 第1回
"EXPERIENCE ON DEMAND"
Jeremy Bailenson 2018年1月出版
『VRは脳をどう変えるか? 仮想現実の心理学』
著:ジェレミー・ベイレンソン 訳:倉田幸信
文藝春秋社、2018年8月8日発売

スキーヤーのようなゴーグルを装着して仮想世界に浸るVR(バーチャルリアリティ)──。多くの人は新しいゲーム機かマニア向けの新奇なガジェットだと思っているだろう。だが米国では、10年以上前から75カ所を超える医療機関で「治療用の機材」として利用されている。戦場で心の傷を負ってPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症した米軍兵士の治療に使われ、2000人以上の役に立った実績があるのだ。医療現場だけではない。アメリカンフットボール最高峰のNFLでは、2014年から6チームが選手のトレーニングにVRを導入している。ウォルマートは社員向け業務マニュアルのVR化を進めている。VRは単なるおもちゃではなく、さまざまな仕事に役立つ道具なのだ。

本書『VRは脳をどう変えるか? 仮想現実の心理学』は、VR利用の現状と今後を豊富な事例と実験によって描き出す。著者はスタンフォード大学のジェレミー・ベイレンソン教授で、20年にわたりVRの研究を続けている第一人者だ。技術畑の出身ではなく、専門は心理学とコミュニケーション学。もともと心理学の研究ツールとしてVRを使っているうちに、その無限の可能性に魅入られ、スタンフォード大学にVR研究所まで作ってしまう。Facebookがオキュラスを買収する直前にマーク・ザッカーバーグCEOの相談に乗ったり、Googleの社員向け講演会に登壇したりするなど、巨大テック企業への影響力も大きい。その著者が本書で繰り返し強調しているのは「VRはメディア経験ではなく経験そのものである」という点だ。これはどういう意味なのだろう?

あたかも「現実」と錯覚する、VRによる疑似体験

ホラー映画や恋愛ドラマ、小説などにのめり込んで主人公と一体化した経験はだれでもあるだろう。こうした「メディア経験」を通して、人は他人の視点でものを考えたり、自分が体験したことがない世界を垣間見られたりする。だが、どれだけ映画や小説にのめり込んだとしても、スクリーンや文字などのメディアは我々の周囲360度をぐるりと囲む物理的現実とは明らかに違うため、我々は頭の隅で「これはニセモノだ」とわかっている。ところが(できの良い)VRはあまりにも現実的に感じられるため、「これはニセモノだ」と意識しているつもりでも、脳は反射的に、無意識に、仮想現実の出来事を「現実」ととらえてしまう。脳がだまされるのだ。面白いことに、VRの「できの良さ」は、映像のリアルさとはそれほど関係しない。重要なのは、自分の身体の動きに合わせて視覚や触覚、聴覚などが現実と同じようなフィードバックを返すかどうかである。
つまり解像度が低く、一昔前のテレビゲームのようなカクカクした映像でも、自分の動きに合わせて360度の視界が正しく変化し、環境音も変化し、触ったものがその映像にきちんと対応する触覚を返せば、我々の脳はそれを現実だと思ってしまう。

この性質を利用すれば、さまざまな仮想現実を創り出して、それを人々に「経験」させることが可能になる。例えば、宇宙飛行士にしか見られなかった視点で「衛星軌道から青い地球を見る」経験は、地球環境問題への態度を変えるだろうか? 臨場感たっぷりの一人称視点で人殺しゲームを経験したら? 生々しい仮想のパートナーを得たら、人は現実でセックスをしなくなるのだろうか? ──筆者はさまざまな実験を通してVRが人間心理に与える影響を探っていく。その知見をもとに、教育やスポーツ訓練、企業研修やエンタテイメントまでVRが世の中をどう変えていくか、説得力のあるシナリオを描いてみせる。

VRが発達した世界は、ユートピアかディストピアか

そして著者は「VRを普及させるキラーアプリは何か?」という問いに対し、「それはソーシャルVRだ」と断言する。FacebookやBBS(ネット掲示板)のようなオンライン上の交流を、多くの人がVRで行うようになったとき、VRは「一家に一台」、いや「一人一台」のマストアイテムになる。今はまだソーシャルVRはほとんど製品化されていない。だが大手テック企業は、「ソーシャルVRこそ世の中を変える次世代の中核技術だ」とにらんで研究開発を続けている。カギを握るのは、仮想空間内で「ソーシャル・プレゼンス(人が実際にそこにいるかのような存在感)」をいかに再現するかだ。それは技術の問題というより、心理学の問題である。人はいかに他人の存在を感じ、好感や嫌悪感を抱くのか。コミュニケーションを通して自分でも無意識のうちにどんなサインを相手とやりとりしているのか──。こうした謎を解かないと、高品質のソーシャル・プレゼンスは実現できない。本書のテーマはVRだが、実は筆者の最大の関心事は「人間心理」なのだ。

いつか本当に仮想世界が現実と同等になったら、映画『マトリックス』や『レディ・プレイヤー1』のように、人々は仮想世界で生きていくようになるのだろうか? 本書はVRをユートピア的にもディストピア的にも描かない。著者はVRに魅了されてはいるが、科学者らしい客観性でプラス面とマイナス面を冷静に描く。VRはたんなる道具であると。だからこそ、我々はこの道具の正しい使い方を考え、見つけなければならない。この本を書いた目的はそこにある、と筆者は言う。

執筆者プロフィール:倉田幸信 Yukinobu Kurata
早稲田大学政治経済学部卒。朝日新聞記者、週刊ダイヤモンド記者、DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー編集部を経て、2008年よりフリーランス翻訳者。

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