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新進作家が拓くアメリカ文学の新たな地平(新元良一)

「新元良一のアメリカ通信」第4回
“Friday Black” by Nana Kwame Adjei-Brenyah
(ナナ・クワメ・アジェ=ブレンニャ)  2018年出版
*日本語版は2019年12月刊行予定 駒草出版

何がきっかけかは忘れたが、昨年の秋だった。ネット・サーフィンをしていると、アメリカのブック・ガイドを掲載するとあるサイトにたどり着いた。
新刊書の情報がいろいろと紹介されている中で、『Friday Black』という短編集に目が止まったのは、表紙デザインにアピールするものがあったからだ。

まるで日本の劇画を思わせるビジュアルに強いインパクトを感じた。
サイトの記事を読み込んでいくうちに、それが近く刊行される、大学の創作ワークショップを卒業したばかりのナナ・クワメ・アジェ=ブレンニャという新人作家が書いたデビュー作であるのがわかった。

名門大学出身の黒人作家の鮮烈なデビュー作

過去にレイモンド・カーヴァーやトバイアス・ウルフ、現在はブッカー賞を近年受賞したジョージ・ソーンダーズが教壇に立つシラキュース大学の同ワークショップは、優れた作家を輩出する名門として知られる。そのソーンダーズから薫陶を受け、今回最初の作品を発表したアジェ=ブレンニャだが、黒人作家である彼が、こうしたアメリカ文学の土壌から出てきたことに興味を持った。
教育の専門家でない僕は、人種の垣根を超えた状況をその方面から詳しく分析することも、意義を語ることもできない。けれど少なくとも、名の知れた大学で小説創作を学ぶという、80年代から基盤が築かれ、今も続く白人を中心にしたアメリカ文学の大きな潮流に新しい波が出現した感がある。

昨年出版された直後、アメリカのマスメディアは本作と著者を様々な局面で捉えた。ニューヨーク・タイムズ紙では、出版界の権威とも言えるブックレビューの表紙で取り上げ、ファッション情報などを伝えるスタイル欄でも、アジェ=ブレンニャのインタビュー記事を掲載するなど、新進作家としては破格の扱いである。

ではこれが何を意味するのかと言うと、アメリカの文学シーンで、人種にかかわりなく共有できる「コモン・グラウンド」が拡大した、と個人的には思っている。
アメリカ文学が歩んだ道のりを振り返ると、脚光をあびた黒人作家は過去にも例があるのは言うまでもない。ラルフ・エリスン、トニ・モリスン、リチャード・ライト、ジェイムズ・ボールドウィン、コルソン・ホワイトヘッド……彼らの小説やエッセイなどを通じて、我々読者はアメリカ社会における黒人たちが抱える苦悩や取り囲まれる悲劇、不条理を知った。

しかし黒人たちの生活は、苦難や不幸に包まれたものでしかない、と視線を限定させるのは安直である。そこには、黒人以外の人々とも心を通わせあえるものが存在するー『Friday Black』を読みながらそんなことを考えた。

12編の物語から見える現代アメリカの揺らぎ

たとえば、収録された「Lark Street」という一編。高校生カップルの妊娠が判明し、ふたりは人工妊娠中絶を選択する。ところが生を亨けなかった彼らの子ども(双子)の命が、目に見えないほど小さな胎児となって、カップルの男性の前に姿を表し、彼の耳元でささやきかける。
現実離れした設定ではある。だが、胎児の双子と男子高校生の会話のやりとりをはじめとする卓越した筆致、カップル・セラピーに男女が行ったあたりから予想がつかないストーリーに展開したりと、最後まで一気に読ませる。

小説の中で、登場人物の人種は明かされず、その差別に関連した問題は示されない。宗教的な理由から、アメリカでは中絶問題が社会を二分することも少なくないが、物語はポリティカルな面を強調するより、揺らぐ男女関係の機微から生命体の不思議さまで、多くの読者の心へ訴えかける内容となる。

ではこの短編集がノンポリで、日和見的な見解が埋め尽くす作風かといえば、そこにとどまるわけでもない。体調不良になった父を息子が病院へ連れて行く「The Hospital Where」では、我々人間の根幹に迫る普遍的なテーマへとまなざしを向ける。
小説の主人公の息子は何年か前、“12の舌の神”という存在と遭遇した。貧困状態にあえぎ、ライフラインや自宅まで取り上げられそうになり、憎悪の念を彼は抱く。
そんな息子に12の舌の神は、全能の力を授けることを約束する。グロテスクとも不思議とも言える儀式を終え、神との誓いを立てた結果が、父を病院に送ったこの日にやってくる。
複数のチューブを体に装着する患者、危篤状態の身内が亡くなったことを知らされる別の患者の家族。いつ退院できるかわからないだけでなく、人生が終わってしまったかのような絶望的ムードが漂うその場所で、ようやく12の舌の神が受けた力が発揮される様子に、生命に対する揺らぎない尊厳を読者は意識することになる。

人種を隔てるものを超越する魅力が、この短編集にはあると書いてきた。だがそれは、多くの読者獲得に向けて著者の黒人としてのアイデンティティを消し去る意味ではない。「The Finkelstein 5」は、法のもとでは平等でありながら、警察や法廷、権力から不当な扱いを受けてきた黒人たちの、悲しみの歴史や社会的立場が下敷きにある小説だ。

主人公の青年エマニュエルは、就職のための面接を受けることになっていた。黒人へのネガティヴな一般的イメージを少しでも和らげ、面接で好印象を持ってもらえるよう彼は言葉の使い方や服装を心がける。
だが、黒人の若者たちがあらぬ容疑をかけられ、裁判で有罪が確定する事件が社会問題となり、彼の周辺にも影響を及ぼす。先の「不当な扱い」がエマニュエルの生活に徐々にしのび寄り、就職もうまくいかず、彼の怒りのレベルは次第に高まっていく。
この怒りの高まりを、「黒人らしさ」として数値が示されるところは、アジェ=ブレンニャのほかの作品と同様、ある種の寓話性を物語にもたらす。その要素も相まって、友人と警察との衝突にエマニュエルが巻き込まれる結末は、サスペンス・ドラマを見ているかのようなスピード感がうかがえる。

黒人としてのアイデンティティを表現する理由はポリティカルな面を強調したいため、とはあまり映らない。人間が生きていく上で、手放してはならない存在価値が物語全体に漂うからだ。

「人種問題」に矮小化されないダイバーシティの可能性

それにしても、この人物造形や彼らの営みの広がり様はどうだ。“黒人(作家)だから”といったレッテルを貼らせず、ステレオタイプ的な発想を退け、なおかつ、自分と同じだけど、“違う”ということをも肯定的に捉えさせる機会を、本作は読者に提供している。
時代が要請する多様性の意義が、小説を通じてここで見つかる。アメリカ文学が持つ底力の大きさを再認識させる、そんな12編の物語が一冊の本に集結する。

執筆者プロフィール:新元良一 Riyo Niimoto
1959年神戸市生まれ。84年に米ニューヨークに渡り、22年間暮らす。帰国後、京都造形芸術大で専任教員を務め、2016年末に再び活動拠点をニューヨークに移した。主な著作に「あの空を探して」「One author, One book」。


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