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ナチス高官の逃避行と謎の死(園部哲)

「園部哲のイギリス通信」第14回
"The Ratline: Love, Lies and Justice on the Trail of a Nazi Fugitive"
by Philippe Sands(フィリップ・サンズ)2020年4月出版

著者フィリップ・サンズはユダヤ系英国人でロンドン大学法学部教授、勅撰法廷弁護士(Queen's Counsel)、そしてイギリス・ペンクラブの会長でもあります。彼が2017年に出版した傑作"East West Street"は、僕が2018年に『ニュルンベルク合流』(白水社)として翻訳しました。『ニュルンベルク合流』を簡単にまとめると、著者のルーツ探訪とニュルンベルク裁判にかけられたナチスの戦争犯罪人を軸に、国際法の発展史をからめたという(実は簡単にはまとめられない)複雑な、とても面白いノンフィクションです。本書"The Ratline"はそれに続く作品となります。

"East West Street"を訳していた2018年の冬、打ち合わせ場所の日本料理屋で、著者は一枚の写真を見せてくれました。あるオーストリア人の家の本棚の写真です。チロルかどこかにありそうな平和な家庭の、変哲もない本棚でした。その隅っこに小さな丸い写真立てが見えます。フィリップはいたずらっぽい顔で「何だと思う?」と、それを拡大して見せてくれました。ヒトラーの肖像です。つまり、その家の主人はいまだに(2017年時点でなお!)ヒトラーを密かに崇拝している、という印なのでした。そしてその男が"The Ratline"の重要な登場人物の一人、ということになります。

「ナチス戦犯」ヴェヒターの逃避とその謎

前置きが長くなりましたが、"The Ratline"は"East West Street"の続編ともいえます。が、ストーリーとして密接につながっているわけではありません。"East West Street"で描かれるニュルンベルク裁判では、ナチスの幹部全員が裁かれたわけではなく、何人かが追求の手を逃れて姿を隠しています。その一人が本書の主人公、オットー・ヴェヒターというポーランドにおけるユダヤ人殲滅の責任者です。彼は第二次世界大戦停戦の2日後、1945年5月に妻シャーロットと6人の子どもを残して忽然と姿を消します。

その後、彼はオーストリア・アルプスに身を隠し、4年後の1949年4月に山を降りてローマ行きの列車に乗ります。実は、このオーストリアの山岳地帯に身を隠していたときに彼の世話をしていたのが、上記で触れた、ヒトラーの肖像写真を大切に──しかし密かに飾っていた人物なのでした。彼の名はブルクハルト・ラートマン、愛称はブコといい、ナチスの親衛隊員だった男です。

オットー・ヴェヒターが敗戦のドイツから逐電したのは、ニュルンベルクでの絞首刑から免れるためでしたが、アルプスという熾烈な環境で4年も隠遁生活を送っていたのは、かのナチス戦犯追及者、ヴィーゼンタールなどの目をくらますためでもありました。ヴェヒターの逃避とそれを助けた親衛隊あがりのブコの献身というのは、世界のあちこちに散った隠れナチスの典型的な生き残り作戦でした。

本書のタイトル"The Ratline"の意味も、欧州から南米へナチスを逃すエスケープ・ルートの愛称です(悪名高きあのアイヒマンがアルゼンチンへ遁走したルート)。でもなぜアルプスからローマへ降りていったのか? 南米へのエスケープならスペインやポルトガルの港へ向かった方が、早道のような気がしますが──。

それはローマ市内に位置するヴァチカン──ローマ教皇庁が、ナチスの逃避行に協力していたからです(余談ですが、ヴァチカンとファシストの繋がりというのは、ヴァチカンがムッソリーニを支援していた頃から強いのです)。つまり、ヴェヒターはヴァチカンの庇護を受けて南米へ移住しようと画策していたのでした。

しかしそれはドアをノックすれば南米路線の切符をもらえる、というような簡単な話ではありません。ヴェヒターは一定期間、ローマでの暮らしを余儀なくされます。もちろん偽名での生活です。金に困っていたヴェヒターはアルバイトとして、1950年に封切りされる映画"Donne senza nome"(名前のない女たち)にエキストラとして出演したりしています(フィルム上で確認できる)。

ところが1949年7月、彼は急死してしまいます。死因は謎。これが本書のちょうど真ん中あたり。残りのページで、南米行きを計画していたヴェヒターがなぜローマで客死したのか、その謎解きが延々と繰り広げられるのですが、『ニュルンベルク合流』をお読みになった方にはおなじみの、著者フィリップ・サンズならではの(つまりは法廷弁護士の面目躍如たる)資料の徹底追究と、謎解きのためなら世界のどこへでも飛んでゆく神出鬼没の活躍が始まるのでした。今回はアメリカへの調査旅行で意外な事実が判明します。

「戦犯」の妻として、息子として

ここでその謎解きはしませんが、主軸となるストーリーは以上。ただし読者に念押しをしておきたいのは、もう一つのサイドストーリーと、これら二つのストーリーの提供者が、大変に重要だということです。というよりも、これらは同等に重要なのであって、読者によってはサイドストーリーを本編以上に評価したり、これらストーリーを提供したとある人物の特異性に感心したりするかも知れません。

サイドストーリーとは、主人公オットー・ヴェヒターとその妻シャーロットのラブストーリー。1920年代からの交際と、かなりのプレイボーイであったヴェヒターとの一筋縄ではいかない関係、ヴェヒターのローマまでの逃避行も結局は家族そろって南米へ移住するための準備で、逃避中、移動中も、二人は直接・間接に連絡を取り合っていたという美談。シャーロットの嫉妬すらも、二人の関係の熱量の多さを隈取るように思えます。

そしてストーリーの「提供者」というのは、実はヴェヒター夫妻の二人目の息子、ホルストのことです。ホルストは著者の前作『ニュルンベルク合流』の後半にも登場しています。ユダヤ人虐殺の責任者のうちのナチス高官、ハンス・フランクの息子ニクラスと対比させられる形で。二人とも「ナチスの戦争犯罪人の息子」という立場では同じです。しかしニクラスの方は父親の犯罪を憎み、告発する「正義漢」であるのに対して、ホルストは父親の犯罪を否定し、正当化を試み、いかに素晴らしい役人だったかを唱道するのに人生を費やしている。絵に描いたような正反対の姿です。

結局は著者の人間的魅力に両者共々惹かれてゆき、二人とも心を開いてそれぞれの家族の秘密をさらけだしてゆくのですが、ホルストの場合は徹底していました。父親は正しかった、という信念があるゆえに、隠すことはなにもない、という開き直りとも言えますが、とても人なつこいこの老人が人生の最終段階で、信頼に足り、人好きのする著者フィリップ(彼は日本の国際法学会にも多くの友人を持つチャーミングな人物です)に、全資料を開放したのです。驚くべきは、母シャーロットが友人たちとの語り合いを録音しておいたカセットテープまで聞かせてくれたという点です。ここまでのさらけだしがあったからこそ、オットーとシャーロットの親密な恋愛関係が描かれ得たわけです。

ひとつだけ、本書を熟読した者だけが感じ取ることのできる、デリケートな部分をお伝えしましょう。父親オットー・ヴェヒターを敬愛し、ホロコーストの汚名を注ぎ、その名誉回復に生涯を捧げてきた息子ホルストは愛らしい少年でした(本書裏表紙などの写真に明らかです)。しかし、1945年5月に父親が家族を置いて立ち去ったとき、1939年生まれのホルストはわずか6歳です。6歳の少年──というか児童が、ナチス高官だった父親の人柄、行動などをきちんと評価できたでしょうか? 著者に対し延々と反論する父親の潔白証明は、父親不在そして父親の死後構築されたものです。そしてその情報源は、母親シャーロット以外にありません。つまり、父親に対する激しい愛情と尊敬と見えるものは、実は母親に対する愛情、母親の全肯定だったのではないか、と感じられるのです。

著者の卓越した調査能力と好奇心、人柄の賜物

最後にもう一つ重要なファクターをつけ加えるとするならば、それはやはり著者フィリップ・サンズの人並み外れた好奇心、緻密で大胆な調査能力、多言語資料の読み込み、そして関係者一同を魅了する人柄(ある人はこの点を「磁石」と評していましたが)でしょう。これらがすべて揃ったからこそこの本は成り立った、という点を強調したいと思います。勤勉なる彼はすでに"East West Street"、"The Ratline"に続く三作目を準備中だと言います。

ところで本書刊行に先行し、2018年9月からBBCが本書の原型となる"The Ratline"を全10話にまとめて連続放送をしました。大変に好評で、この放送のおかげで本書の刊行が心待ちにされたという面もあります。

現在(2020年8月)はBBCのウェブサイトに全放送が収録されていますので、試聴してみてください。単なる朗読ではなく、著者みずからがガイド役兼語り役になって、物語の現場を歩きまわります。ホルストの住む「城」で彼と語ったり(ホルストは英語が堪能です)、後半ではオットーが死んだローマの病院でインタビューをするなど、現場の生の声や声が挿入されていたり、部分的にドラマ化された部分があったり、大変に立体的でエキサイティングな作品になっています。もちろんホルストの母親シャーロットの録音された声も聞こえます。

執筆者プロフィール:園部 哲 Sonobe Satoshi
翻訳者。ロンドン在住。翻訳書にフランク・ラングフィット『上海フリータクシー:野望と幻想を乗せて走る「新中国」の旅』、アリエル・バーガー『エリ・ヴィーゼルの教室から: 世界と本と自分の読み方を学ぶ』、フィリップ・サンズ『ニュルンベルク合流:「ジェノサイド」と「人道に対する罪」の起源』(いずれも白水社)など。朝日新聞日曜版別紙GLOBE連載『世界の書店から』でロンドンを担当。
インスタグラム satoshi_sonobe

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