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アダム・スミスが説く人間の普遍性(篠田真貴子)

「篠田真貴子が選ぶすごい洋書!」第14回
"The Theory of Moral Sentiments" by Adam Smith 
Digireads.com 2011年3月出版
道徳感情論
著:アダム・スミス 訳:村井 章子、北川 知子 日経BP 2014年発売

アダム・スミスは生涯に2冊だけ、本を出版したそうです。1冊は、歴史の教科書にも載っているほど有名な『国富論』です。もう1冊が『道徳感情論』。2008年のリーマンショックを機に、マーケット至上主義を反省する議論が欧米で盛んになりました。そうした議論の中で、「見えざる手」という表現で市場経済を肯定したと一般的に考えられているアダム・スミスが、もう1冊の著書で「道徳」を説いていると、驚きとともに「再発見」されたのです。”How Adam Smith Can Change Your Life: An Unexpected Guide to Human Nature and Happiness”(『スミス先生の道徳の授業 ―アダム・スミスが経済学よりも伝えたかったこと』)という解説の本が出版されるなどしました。

こうした事情は知っていましたが、私は『道徳感情論』自体を読もうというところまで興味は持ってませんでした。それが、新型コロナウイルスの影響で外出自粛をし、少し時間の余裕が出来たタイミングに、たまたま友人が『道徳感情論』のオンライン輪読会に誘ってくれたんです。こうした機会でもなければ、とても読み通せる自信はありません。「解説本を読んでしまうと影響されるから、『道徳感情論』そのものを読みましょう」という主催者の言葉に鼓舞され、挑戦した次第です。

道徳感情論』の内容や評価をするほど、理解できた自信は全くありません。専門の研究者の論考がたくさんありますから、そちらに譲りたいと思います。ここでは、素人の私が『道徳感情論』をどう感じたか、体験談としてお伝えしますね。

共感、友情、徳……論理的に解説される「人間の感情」

読み始めて、まず、人間観察が細かいことにびっくりしました。例えば、第1部第1編第2章で「共感がなぜどのように呼びさまされるかはさておき、自分の胸中に湧いた情を他人が共にしてくれるのはたいへん快いものであり、何の共感も示されないのはひどくいやなものである」とあります。

なるほど、そうだなあ、と感じ入りながら読み進めると、続きにこう書いてありました。「友情を受け入れてもらいたいと願う気持ちは、一緒になって敵を憎んで欲しいと願う気持ちよりずっと弱い」。つまり、共感を求める気持ちは全て等しいのではなく、「強く共感してほしい」と私たちが感じる感情と、それほどでもない感情がある、というんです。

自分に何かいいことがあったとして、友人がそれに無関心でも許すことができるが、こちらが危害を加えられたようなときに友人が知らん顔をしていると感じたら、とても我慢できない。(略)友達の友達にならずに済ますのは簡単だが、友達の敵と敵にならずに済ますのは至難の技である。友人が自分の友達の敵に回ったら、そのことで多少気まずくなるかもしれないが、恨むには至るまい。だが友人が自分の敵と親密になったら、私たちは断固喧嘩をせずにはいられない。(村井・北川訳)

確かに! 参りました。

また、人の感情というテーマに対して、フワッと感覚的に書くのではなく、論理のステップを細かく刻み、緻密に議論を進めていくところも、とても特徴的です。例えば、私たちが自分自身の感情が適切かをどう判断しているのかを論じた第3部第1章では、段落ごとに、次のような論理が展開されています。(村井・北川訳に基づいています)

1. 人里離れた場所で育ち、他の人間と一切交流せずに大人になった人がいたとしたら、この人は自分の顔の美醜など考えもしないのと同様、心が美しいか醜いかも考えないだろう。

2. (このように)私たちが自分の美醜の基準を導き出すのは他人の容姿からであって、自分の容姿からではない。とはいえ、他人からも全く同じ批評をされていることに私たちはすぐに気付く。他人が自分の容姿を気に入ってくれればよろこび、嫌っているようだとガッカリする。

3. 同じように、私たちが内面的な美醜を吟味するのは他人の人格や行動についてであり、それらが自分の感情にどう作用するかを熱心に知ろうとする。ところがたちどころに私たちは、他人もこちらの人格や行動にあからさまな興味を抱いていることに気付く。そこで私たちは、他人が自分にとって好ましかったり不快だったりするように、他人の目に自分は好ましい人物と映っているのか、または不快な人物と見做されているのかを知りたがる。

4. 自分の行いを吟味し是認するか否かを決めようとするときは必ず、言ってみれば自分自身を二人の人間に分けている。第一の私は観察者である。第二の私は行為者である。行為者である私の行動について、観察者の私としてしかるべき意見を形成しようと努めている。

5. 徳は愛し報いるべきものだ。しかし、その理由は、徳自体が愛や感謝の対象だからではない。他人に愛や感謝をかき立てられるものだからだ。徳がこのように好まれると知っているからこそ、徳の実践は心の平穏や自分に対する満足感を伴う。逆に悪徳は嫌われると知っているからこそ、悪徳は苦悩を伴う。

どんな読者を想定したら、これほど緻密な論理展開が必要だと考えるようになるんだろう。本書を書いた時代は、どのようなものだったのか。このような細やかな人間観察が出来て、人間というものに肯定的であるには、アダム・スミスはどんな人生経験を積んだんだろう。読みながら知りたくなりました。

まだ詳しく調べたわけではありません。読書会の仲間と情報交換したり想像を重ねていく時間を、楽しんでいます。例えば、アダム・スミスは本書で「神」という言葉をほとんど使わずに「道徳」の由来を説明しようとしています。これは当時の宗教観に照らすと、かなり新しい価値観だったのではないか。産業革命が始まろうとする時代でしたから、科学的な論理構成が様々な分野に影響を与えていたのかもしれない。そのような想像をしてから調べると、発見や驚きがあって、楽しいのです。

古典を読み解くことで見えてくる普遍的な価値

本書は、日本語訳を中心に、時々原文を参照しながら読み進めました。現代に書かれた本の場合は、ニュアンスをより正確に理解できることから、私は原著を読むことが多いのですが、18世紀の英語のニュアンスを把握するほどの力量はないため、今回は諦めました。日本語訳は村井章子さんと北川知子さんのバージョンと、高哲男さんのバージョン、両方見ています。翻訳文は訳者の解釈。例えるなら人伝に話を聞くことに似ています。人によって伝え方が異なりますから、可能なら複数参照した方が原著の意図をより良く理解できると考えています。

本書の原題”The Theory of Moral Sentiments”の moral sentiments という言葉について、村井章子さんは1ページ以上を割いて「本来なら『人間の感情』『社会の感情』の方が訳語として適切だが、『道徳感情論』の名称が定着しており、混乱を避けるためにこれを採用した」という趣旨の説明をしています。「道徳」というと、現代の私たちは小中学校の授業を思い出してしまいますが、本書はもっと根源的で普遍性のある人間像を描いていると感じました。

APU学長の出口治明さんが、「『古典を読んで分からなければ、自分がアホやと思いなさい』と大学で教わった。一冊の古典はビジネス書10冊、いや100冊に勝るかも知れない」(https://diamond.jp/articles/-/17022)と各所で語っています。『道徳感情論』を読みながら、その言葉を何度も思い出し、おっしゃる通りだと実感しました。

執筆者プロフィール:篠田真貴子  Makiko Shinoda
小学校、高校、大学院の計8年をアメリカで過ごす。主な洋書歴は、小学生時代の「大草原の小さな家」シリーズやJudy Blumeの作品、高校では「緋文字」から「怒りの葡萄」まで米文学を一通り。その後はジェフリー・アーチャーなどのミステリーを経て、現在はノンフィクションとビジネス書好き。2020年3月にエール株式会社取締役に就任。


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