西洋の終わり

西洋の「終わり」は、本当に自由と平等の「終わり」なのだろうか?(武井涼子)

武井涼子の「ビジネス書ときどきオペラ」第1回『「西洋」の終わり 世界の繁栄を取り戻すために』著:ビル・エモット 訳: 伏見 威蕃日本経済新聞出版社 2017年7月出版

ニューヨークで感じた自由と平等、開放性

先日、素晴らしいご縁をいただいて、ビル・エモット氏にインタビューを受け、私が思う日本の女性の現状についてべらべらと好き放題、話す機会をいただいた。さすがに高名なジャーナリストであるエモット氏。的確な質問をたくさんして下さって、私の考えているところは大いに伝えさせていただけたと感じている。

実際、インタビューを受けて感じたのは、たった2年だが、リーマン・ショック直前まで住んでいたニューヨークと、それ以外の人生ほとんどを過ごしている東京を比べると、精神的にラクだったのはニューヨークのほうだった、ということだ。もちろん、ニューヨークがすべて良いと言っているわけではない。常に、自分がどうしたいか、そのポジションを自己責任とともに問われるし、「平等」と謳ってはいても、見えないところでは差別もあった。
しかし、ニューヨークでは表向きの大前提として、「Politically Correct(政治的正しさ)」が至上とされている。多様性に開放的で、母国語や文化が異なる人たちが行き交うニューヨークにおいては、たとえ、人種差別のようないやな目に遭ったとしても、平等でないことについては「おかしいよね」と憤り、その気持ちをともに共有できる仲間がたくさんいた。やりたいことを「やりたい」と言えば、やれる自由な環境もあった。
つまり、どんな場面においても「自由」と「平等」が旨とされていて、それに基づいて人が行動することは自明の理。そして、それを良しとしていると表明することは「良いこと」で、それを阻害する活動は何にせよ「悪いこと」という価値観については、疑いをはさむ余地はなかったのだ。

国の枠組みを越える組織や人が世界を束ねる?

その「自由」と「平等」、そしてそれを支える「開放性」が最近では危機的な状況にある、というのがこの『「西洋」の終わり』の大まかな骨子である。そもそも、日本も含め、世界でさまざまな格差が広がりつつあるのだという。それはグローバル化の進展がもたらした不平等の拡大が背景である、とエモット氏は指摘する。ポピュリズムが蔓延して開放性が否定され、移民排斥や孤立主義を訴える政党の支持率が上昇し、各国間の協調関係は分断される。アメリカなどでみられるように、国内でも「断絶」が起きるかもしれないという。実際、トランプ大統領とEUの自動車関税のやりとりや、メルケル首相と他のEU諸国との移民問題のやりとりを見ると、事態は本が出版された昨年より悪化しているようにも見える。なぜだろうか。

本書で、エモット氏は、イデオロギーとしての政府や政治が、時として非開放的になり『自由』や『平等』を妨げる方向性を持ち得ると指摘している。そもそも、政府や政治力の源である国という概念は、いつまで私たちにのしかかるのであろうか。重商主義が始まった16世紀の半ばから、人が国を意識して権益を得ようとしていたとするならば、我々は「国」という制度を自明のものとして、はや500年を過ごそうとしている。しかし、どうであろう?今、私は国にどれほど頼っているのか、わからなくなる。

少なくとも、グローバル企業で働いていた時には、税金ばかり取っていく日本への帰属意識より、給与を支払ってくれる企業への帰属意識が高かったことは間違いない。さまざまな国のオフィスを行き来し、さまざまな国籍の社員と同僚や上司、仲間として働いていたこともあり、国より企業の利益という意識すらあったと思う。
自分の行動も、日本的というより企業に寄っていたことも間違いない。奥ゆかしく謙虚、といったような行動における日本文化的態度は全面に打ち出してもいいことはあまりなく、むしろ企業文化の行動規範のほうが、しっくりきていると思っていたし、実際にも私はそう行動していた。

考えてみると、グローバル企業で働く以外にも、所属組織は別として国境がなく、グローバルな市場で働く職業はたくさんある。いわゆる「プロフェッショナルな職業」と規定すればよいのだろうか。研究者の世界、医者の世界、エンジニアの世界……。みな国境に関係なく仕事をしている。日本出身であっても、別の国で働いている時もある、日本で働いていても別の国の人とチームを組んでいることもあるのだ。スキルさえあれば、誰でも参加でき、実力さえあれば称賛される開放的な環境でもある。たとえば私自身、音楽の世界を考える時に、「自分が何国人か」を考えることがないわけではないが、「国が有利になるように何かを考える」ということはほぼない。「自分のため」か、あるいは、「お客様のため」「自分がプレーヤーとして所属する市場の発展のため」、そして、「地球のため」「人類のため」……と思うものである。今や、企業やプロフェショナルは着々とグローバル化し、宇宙空間から見れば存在しない「国境」という線を軽々と越えているようにも見える。

そう考えたとき、私は「西洋」と「グローバル企業」との間のある共通点に思い至った。つまり、私がニューヨークで感じた「自由」と「平等」という価値観と、開放的な環境を西洋的な文化とするなら、その価値観と環境こそが、グローバル企業やプロフェッショナルな職業を支える要諦だったのではないだろうか、と。
確かに、西洋を「国」として見るなら、もしかしたら本当に西洋は終わりかけているのかもしれない。だが、グローバル企業やプロフェッショナルな職業人の世界は、開放的に多様な人を雇い、歓迎し、確実に西洋的な「自由」と「平等」の価値観を守っていくだろう。なぜなら、それこそが彼らの強さの要諦だからだ。いずれ、地球全体から見たら狭い地域を守ることに汲々とする国の存在価値は大きく低下し、地球全体を考えるグローバル企業やプロフェッショナル達が世界をまとめていく日も来るのかもしれない。 それを予感して、 グローバル企業はSDGs(国連が2030年に向けて2015年に定めた持続可能な開発目標)に意識を向けESG投資(環境・社会・ガバナンスを重視した投資)を加速させたりしているのか。ただ、これも、エモット氏の説を借りるのであれば、グローバル企業に関わる人やプロフェッショナルな職業に就いている人と、そうでない人が一つの国の中にいることで生まれる格差として捉えられ、より一層のポピュリズムを生んでしまうのかもしれないが。

執筆者プロフィール:武井 涼子 Ryoko Takeiグロービス経営大学院 准教授/声楽家。電通等を経て、コロンビア大学でMBAを取得。帰国後、マッキンゼーとウォルト・ディズニーでマーケティングと事業開発を行う。現在は、グロービスと東洋大学で教鞭をとる。News Picksのマーケティング分野プロピッカーとして2万3千人以上のフォロワーを持つ。声楽家としてはコンサートやオペラでの演奏の他、毎年メトロポリタン歌劇場の副指揮者たちと行う「TIVAA サマー・ワークショップ」や、日本歌曲を世界に紹介する「Foster Japanese Songsプロジェクト」などをプロデュース。そのマルチな活動は、Wall Street Journalや日経新聞などでも取り上げられる。著書:『ここからはじめる実践マーケティング入門』(ディスカヴァー21)他。CD:「日本の唄〜花の如く」(opus55)。二期会、日本演奏連盟会員。www.ryokotakei.com

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