見出し画像

裏側を描いても伝わる料理の世界の魅力(岩佐文夫)

岩佐文夫「キッチンと書斎を行き来する翻訳書」第4回
Kitchen Confidential” by Anthony Bourdain 2000年出版
キッチン・コンフィデンシャル』著:アンソニー・ボーデイン 訳:野中 邦子 
土曜社 2015年発売

レストラン業界の裏側を描く

昔からの疑問に思っていた。なぜ料理は、家庭では女性が担うのに、プロの料理人は男性が多いのか、と。それが少しずつわかってきた。料理器具が発達する以前、切る作業や火を使い作業など、危険でかつ力仕事であった。料理が産業化された当初、それら重労働は男性が担ったのは必然性があり、以来、職業としての料理は男性の世界となったのだ。

今日では、この様相はだいぶ様変わりし、女性の料理人も珍しくない。しかし、基本的に料理は重労働であることは間違いない。

こんなプロの料理の世界を生々しく描いたのが、本書『キッチン・コンフィデンシャル』である。原著の出版は2000年。日本では2001年に初版が出た後、2015年に新装版として刊行されている。

著者のアンソニー・ボーデインは、ニューヨークの有名レストランのシェフである。本書では、料理人という仕事の世界の魅力を、そのダークサイドも包み隠さず、自身の半生とともに描いたものである。

ボーデインは大学を中退し、料理人の世界に入った。そこは多様な人種が集まる。ニューヨークの有名レストランのシェフに辿り着く。料理人の世界は多様な人が集まる。アメリカの場合、中南米の人が多く働く。多様性の坩堝のような世界ではなんでもありだ。ギャンブルや麻薬、セックス、イカサマがまかり通る世界で、まさに生き馬の目を抜く世界。グルメという名の人を魅了する食べ物をつくる世界の裏側はなんと人間味溢れる世界か。しかもニューヨークのレストランという華やかな世界の裏まで見せてくれる。

きつくて、汚くて、下品な職場の代え難い魅力とは

その現場ではおそらく無数の「Fワード」が使われていたであろう。オーダーが集中した厨房では、怒声が飛び交い、無数の注文を捌こうと戦場さながらの世界である。卑猥な言葉と喧嘩に溢れ、しかも徹底したピラミッド社会である。厨房のトップであるシェフは絶対的な存在。どんな理不尽な要求にも耐えるのが、ラインシェフの仕事である。新入りはランチからディナーまで働きづめで、1日14時間労働は当たり前である。疑いなくブラックな職場である。おまけに、火傷や切り傷などは絶えず、腕の傷跡は料理人にとって一つの勲章でさえある。

厨房ではシェフが絶対的な存在として君臨する。シェフの気分次第ですぐにでもクビにされる。なのでパワハラ、セクハラは当たり前。日本でいう体育会系の職場だが、本書では「軍隊のような」と表現されている。

この料理人の世界は、日本の料理人に聞いた世界と極めて似ている。板前と呼ばれる世界の上下関係は極めて厳粛。そして、一人前になった板前は「包丁一本、さらしに巻いて」という台詞そのままに、自分の「腕」のみで店を転々とする。板前が集まると喧嘩が始まることが多い。騒ぎが大きくなり警察が来る前に、未成年の板前を逃すのが中堅の役割だったという。料理のスタイルも文化が違っても、同じ職業の世界はどこでも共通点が多いことに気づかされる。

また、本書には、どうしようもない人がわんさかと出てくる。仕事が終わり朝まで飲んでそのまま翌日出勤する人、仕事の休憩中にドラックに浸る人、食料倉庫でウェイトレスとセックスする人、厨房の食材をくすねる人など、「人としてどうか」という人が数多く出てくる。借金、家庭崩壊、薬漬けなど生活も破綻している人ばかりだ。

その中でシェフの仕事は多彩だ。まずは人の管理。無断欠勤は当たり前、喧嘩っ早い人、気分屋の人も多く、こういった人たちを束ね、店の混み具合を予測しながらシフトを組む。人種も様々で中南米から来た英語を話せない人も珍しくないことから、シェフ自らスペイン語を学ぶという。

そしてメニューを決めること。「今日の料理」をどうするか。毎回同じようなものだと飽きられるし、定番を望んでいる客もいる。原価を見ながら食材の調達、在庫の管理も。営業時間が始まると、次から次へと押し寄せるメニューをタイミングを合わせて完成させる。早過ぎても遅すぎてもだめ。異なる料理も同じテーブルに一斉に出さなければならない。この現場の指揮もシェフの仕事である。毎日の夕食時には、人気レストランの厨房では、どこもこんな戦場さながらの光景が展開されているのか。

このどうしようもない料理人の世界を描きつつ、一方で料理の素晴らしさ、料理を愛する人の子どものような輝きが伝わってくるのが本書の魅力だ。著者の店の近くで腕を振るうスコットというシェフについて記述しているところを読むと、著者が心から美味しい料理を愛しているのが、痛いほど伝わってくる。欠勤常習犯のアダムというパン職人がつくるパンの美味しさは、アダムを雇うシェフに頭痛のタネを提供し続ける。彼をクビにしようという決断が、彼のパンを食べると揺らぐのだ。

料理は、人のプリミティブな欲求を刺激する

料理人の世界を伝えるこの本が、同時に、料理の魅力に溢れ、すぐにでも美味しいものを食べに行きたくなる本であることは間違いない。何より、これだけのダークサイドを抉っていても、文章は明るい。著者も「この業界にいられなくなる恐れがないとは言えない」と言いながらも、溢れる情熱が書くことを止めない。そして料理ばかりか、それに魅了された人々の生身の人間の姿が描かれているのだ。

立派な人などそんなにいない。誰だって欠点はあるし人間は弱いものだ。それでも料理が好きであればこの世界で踏ん張れるし、料理をつくることなら果てしない価値を提供できる人がいる。「清濁併せ吞む」という言葉がニューヨークの人にピンと来るかわからないが、ひどいこと、醜いこと、ずるいこと、どうしようもないこと……あらゆる人の悪口を並べながら、そこにある「一点の美しさ」に光を当てようとするかのように、料理の世界の愛おしさが伝わってくる。

著者は料理人として大事なのは、人を理解することだという。本書が描いているのは、立派な人でも偉大な人でもなく、生身の形容詞のない「人間」そのものである。おそらく、料理とは人間にとって最もプリミティブな活動なのではないだろうか。食の基本は生命の維持である。そして食材は他の生き物の生命であり、それらを人の生のエネルギーへと変換する作業である。著者のものの見方は極めて直感的であり、感じたままの感性がそのまま文字になっている。まさに生身の人間が生身に感じたことが綴られているのだ。

決して社会人として褒められた生活でもなければ、健康を害するような日々。ましてや快楽を抑えることにも逃げない。こんな著者が、料理の世界を通して、そこに魅了された人を生き生きと描く。料理とは、人のプリミティブな欲求を刺激するものではないか。著者の魅力が何よりそれを語っている。

最後になるが、著者アンソニー・ボーデインは、本書の刊行により一躍有名人となり、2002年からは世界中を旅して料理を紹介するテレビ番組などで活躍した。料理人として異色の人気を誇り、いわば「セレブ」として成功者となった。そんなボーデインは、2018年の6月に滞在先のフランスのホテルで自殺した。遺書も残されておらず、理由は不明だという。全米で多くの人に愛された人の惜しまれる死となった。生き方そのものが魅力的な人の死は、なんとも寂しいものである。

執筆者プロフィール:岩佐文夫  Fumio Iwasa
フリーランス編集者。元DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー編集長。現在はフリーランスとして企業やNPOの組織コンセプトや新規事業、新規メディアの開発に携わる。

よろしければサポートをお願いいたします!世界の良書をひきつづき、みなさまにご紹介できるよう、執筆や編集、権利料などに大切に使わせていただきます。