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私のインナーチャイルド~今日は父の日~

今日は何故だか分からないが父のことをよく想う日だ。

私は、何かきっかけがあるわけでもないのに、ふと“その人”のことを想い出しては、過去の記憶に想いをふける時がごく稀に突然起こる。

“その人”とのエピソードが昨日のことのように甦ってくる。そして、同時にその時の感情がまるでタイムスリップでもしたかのように甦ってくるのだ。

所謂「インナーチャイルド」というものだろう。

私の中で眠っている、子どもの頃に味わった感情だ。そのインナーチャイルドが、大人になった私の胸の内にいつまでも居座り続けていて、「ああ、だから私は“私”なんだな」と想い知らされる。

さて、今日の私のインナーチャイルドはどうやら父の日らしい。

私の父は、某有名大学出身で、今でこそ年をとって引退したが、とある短期大学の教授と、評論家としての執筆活動を二足のわらじで活動していた。

人から見ればエリート。ただ、娘の私から見れば、湯豆腐が好きで、友人のパパのような活発的ないいパパとは言い難いが、マイペースで庶民的なお父さん、というイメージしかない。

ただ、今でこそ思うのは、所謂「社会的」とは少し別の次元の所にいて、よくも悪くもよそからモノを見る人なんだなということ。だから、父が雇われサラリーマンをしている姿は、絶対的に想像し難いのだ。

そして、私も間違いなくそんな父の遺伝子を見事に引き継いでいて、自分が「社会的」とはちょっとよそにいることは、ハッキリと自覚している。

もちろん、お年頃の青春時代は、「社会的」になりきれないことがずっとコンプレックスだったし、今でもそのことで苦労がないわけでもない。

それでも尚、“自分”であり続けようとするのは、父と同じく、よほどマイペースで、よほどの頑固者なのだろう。

私が思うに、父は嘘をつかない人だ。

というのも、私は幼少期の頃、父に“煽てられた”試しが一度もない。よく「我が子は褒めてやる気にさせろ」などという教育法があるが、わりとどこの家庭でも、多かれ少なかれ我が子がどんなに苦手そうなことも嘘でも褒めて背中を押していたものだ。

でも私の父は少し違っていた。無論、苦手なことを「下手くそ」などと揶揄することは決してなかったが、同時に無茶に褒められることもなかった。

父は、親子の間柄においても、いつでも真実の中にいたように思う。

そんな父が、家族で食事をしながら談話をしていた時、ふと私を褒めてくれたことがあった。

「○○の作文はなかなか上手いなと思う。これは兄妹4人の中で1番だよ」と、何気もなしに言ってくれたのだ。

とてもとても嬉しかった。何が嬉しいって、親に褒められたことが嬉しかったのももちろんあるが、いつでも真実の中にいて、普段安易に娘を煽てるようなことをしない父だからこそ言葉に真実味があって
、本当に自分が自信を持っていいことなんだと心底から思えたからだ。

私は子どもの頃から妙に勘が鋭いところがあって、少々子どもらしくない面があった。そんな私が他の家庭のように何でもかんでも褒められても、「ああ、また無理して言ってるな」と思ってしまっていたと思う。だって、苦手なものは苦手なのだから(笑)

私も父と同じように、いつも真実の中にいたのかもしれない。そんな私にとって、父が同じ土俵で褒めてくれたことが、どんな誘惑的な甘い言葉より、何より心にスッと響いたのだ。

この時父が与えてくれた自信は、今でもずっと私の胸の内にあって、それはそれは私自身を支え、強くいさせてくれているように思う。

小さい頃、寝る前に布団で絵本を読み聞かせてくれたこと。
家族で電車に乗っていた時、一風変わった男の人に脅されそうになったのを父が腕をサッと出して守ってくれたこと。
きっと苦手だったかもしれないけど、幼稚園の運動会の親子競技を一緒にやってくれたこと。

父との出来事のそんなこんなを想い出し、私の胸の内に居座り続けていた、父に褒められて嬉しかったあの時の自分の思い(インナーチャイルド)に目を向けてみた。

すると、そこには私から父への絶大なる信頼と愛があって、また、父から私への強くて温かい愛情がしっかり私の胸に刻まれていることを感じて、自然と涙が溢れた。

女の子から女子になって、女子から女性になって、そうすると父との関係性も変わってくる。でもきっとそれはあくまでも見える化できる表面上での関係性であって、私の胸の内には、小さい頃から見てきた父の面影がそのままに、いつまでも変わらずに居続けてくれているような気がする。

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