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2021年9月読んだ本まとめ

偏らないようにしつつ、好奇心の赴くままに選書をしている。小説やビジネス本、エッセイなど手に取る本は様々だが、根底にあるのはただ「人間を理解したい」というのがあるかもしれない。それは本に限らず動画でも現実世界でも、目的はそこに通じているのではないかと思い始めている。

サーチ・インサイド・ユアセルフ ―仕事と人生を飛躍させるグーグルのマインドフルネス実践法

瞑想に関しては何度も挫折してきた。今回こそは!と気持ちは入れては続かず、三日坊主の僕には無理だと諦めてきた。色々な本を読んでいると、瞑想やマインドフルネスを推している人も多く、効果はある程度理解しているのだが、自分の生活にまでは組み込めていなくて、悩んでいたときに「頭で理解するタイプだから歴史とか科学的な面から攻めてみたら?」とアドバイスをもらい、入門編として紹介してもらった。

なるほど、納得した。以前はスピリチュアルな雰囲気が抜けきれなくて、どうも自分にはあっていなかったのだと気づいた。「注意力の筋トレ」という表現が一番しっくりときた。気が散る→戻す の筋トレだと捉えるようにすると、途端に気持ちが楽になる。筋肉はすぐにはつかないし、継続的に行わないとすぐに衰えていく。しかし、継続していけば必ず結果として目に見えてくる。

まだまだ続けている途中であり目に見える結果まではいけてないが、トレーニング中に違うことに思考が飛んだときに、前よりは戻ってくるスピードが速くなった。様々なところにアンテナを張って、情報が入ってくることはいい面もあるが、グラウンドでは命取りになりかねないので、劇的に変化があったと感じている。継続しつつ、紹介されていた瞑想以外のトレーニングにも取り組みつつレベルアップさせていきたい。

街どろぼう / junaida

はじめて『』という作品を読んだとき衝撃を受けた。子どものころの日記では「の」で文章をつなげていくことはよくないこととされていた。稚拙な印象を与えてしまい、子どもの文章の特徴だといってもいいかもしれない。

しかし、その絵本を読んだときモノとモノを繋ぐ「の」の役割の大きさに気づき、どこまでも続けていくことのできる感覚は小さな子どもの想像を促すのに重要な役割を果たしているのかもしれないと思った。忘れていた大事なことを思い返えしてくれている感覚があった。

新刊もそうだ。とても短い物語であるが本質をついている。物質的な豊かさには意味がある?友人は量でなくて質?と大事なことを問いかけられている気がする。

オルタネート / 加藤シゲアキ

デビュー作である『ピンクとグレー』で衝撃を受けたが、今作も終盤の駆け抜け感は圧倒的だった。グイグイとラストに向かって引き込まれた。

主人公は高校生。どこまで正確に現代の高校生の気持ちを表しきれているのかはわからないが、自分自身の学生時代の記憶を引っ張り出されてしまったので、本質的な部分を捉えているのだと思う。個人的には、部活のキャプテンをしている 蓉いるる に自分を重ねてしまった。下の学年の部員に強く当たってしまい、はじめから高い能力を期待してしまう。期待をすることは悪いことではないが、それを指摘し、自分の良いとする型にはめてしまうのはよくない。そんな奴についていこうとする人はいない。

それでも自分の気持ちを伝え行動で示せば、人数は少ないがその姿勢に共感や理解を示してくれる人は必ずいる。そのときは辛くても、必ずそのさきの人生で自分の助けになる。

すきまのおともだちたち / 江國香織

いつか著者の作品は読もうと思っていたが、なかなかタイミングが合わず読めていなかった。今月たまたま紹介をしてもらえたので、下記のエッセイと共に読むことができた。

非現実と現実を行き来する不思議な感覚になる作品だった。ここで気づかされたのは、大人になるにつれて物事をありのまま受け取れなくなって自分がいること。小説を読んだり文章を読んだりしているときに、それが表しているのは何のメタファーか?という思考が浮かぶ。

この小説においても、現実では起こり得ないことに対して現実世界の既存の枠に当てはめて考えてしまった。著者の本心はわからないが、もっとそのまま小説をフィクションとして楽しんでは?という問いかけが聞こえてきそうな気がした。不思議なものは不思議でいいじゃん、と。

何でも自分ごとに捉えることは大切で大事なスキルなのだが、もっとコンテンツをそのまま消費する気持ちも同時に持っていたい。「成長するということは、祝福すべきことではあるけれど、痛切なことでもある」成長してカラカラになってしまった心に染みる。

やわらかなレタス / 江國香織

上記の小説からそのままスライドしてエッセイを読んだ。シンプルにお腹が空いてしまう文章だった。文字から食欲への変換がすごい。途中で牛すじ肉を煮込む話が出てくるのだけれど、あまりに響いてしまって同じものをコトコト煮込んでしまった。

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街場の文体論 / 内田樹

本好きは書店で「本に出会う」と言うが、著者は「本と目が合う」と表現していて一気にすきになった。視線を感じるというか、見られている感覚はたしかに経験がある。出会うよりも目が合う方がときめている感じがある。

書店にいっても文章術なる本はどうしても気になってしまう。今までも文章を書くことは苦手だったが、実際にnoteに投稿するようになってから「書く」という行為を身にしみて難しいと感じるようになった。頭で思っていることをうまく外に出せない、他者に伝わらない、誰にも読まれない。悩みは尽きない。それでも書き続けた先に収穫できるものがあると信じたいし、学びながら文章もアップデートしていきたい。

なぜこんなにも感じたことを言葉に変換できないかと考えていた。著者の言葉で「言葉だけがあって、身体感覚が伴わない。その逆に、身体実感はあるが、言葉にならない。この絶えざる不均衡状態から言葉は生まれてくる」とあった。今はこの不均衡の状態であり、言葉が生まれる条件は揃っているから、言葉にする作業を続けることが大事だと再確認できた。

上達の前提として、書くことはやっぱり続けなければならない。だけど、書くことを目的として書くことはしたくない。いろんなことを考えて生活する中で「書きたい!」と衝動が起こるものをじっと待ちながら、その一瞬をつかまえたい。


断片的なものの社会学 / 岸政彦

読み出したときに、『家ついて行っていいですか?』を思い浮かべたけど、お世話になってるパイセンも岸さんの『東京の生活史』を読んで同じようなことを思ったらしく、同調してると思われたくなくて打ち明けれなかった。弱い。

本書を読んで、街ですれ違う人たちはみんな笑ったり平気な顔をしていても、それぞれ色んな過去があって、それでも乗り越えていまを生きてるんだなって思うようになった。でも、実際僕には人に語れるほどの話はない。あのインタビューや取材がきたらどうだろう。何を語るんだろうか。

そういえば、最近友人が転職したのだが、人生は1回しかないし、いつか自分の本が作れるぐらいの人生を歩んでいきたいと話していた。そう思ってる人はたくさんいるが一歩を踏み出せる人は少ない。いつか出版されるだろうから必ず買おうと思う。

僕には語るに値する友人がたくさんいる。それを語るのかもしれない。

無趣味のすすめ / 村上龍

オードリー若林さんのエッセイで登場していて、BOOK OFFで奇跡的に出会ったので購入。趣味が悪いわけではないが老人のものだという著者のスタンスが好きだ。趣味は基本的にそれを行うのが好きなことである。何時間でもそれに費やすことが苦にならないもののことだろう。今は好きなことを仕事にしようみたいな風潮があるが、僕にはどうも合わない。それを達成できる人も確かに存在するが、そんなに甘い世界ではないし、その人たちもずっと好きでいられているかは疑わしい。好きなもので否定を食らうことほど辛いものはない。何で好きなもので怒られなきゃいけないんだとなったら好きなものも好きでなくなってしまう。そんなのはごめんだ。

仕事に関しては、著者が「真の達成感や充実感は多大なコストとリスクと危機感を伴った作業の中にあり、常に失意や絶望と隣り合わせに存在している。つまり、それは私たちの仕事の中にしかない」と述べている。趣味や好きなものにカテゴリーされるものに、僕は多大なコストだったりリスクはかけたくはない。その代わり、趣味や好きなものを別枠として担保しておくことで「仕事」と呼ばれる分野にしっかりベットできる。ギャンブルみたいなイチカバチかの人生を送ってきたけど、それはこの先も変わらないんだろうな。

これでおしまい / 篠田桃紅

小学校の恩師から紹介してもらった篠田桃紅さんの本。周りにいる素敵な人たちの特徴に「終わりを意識している」ことがある。久しぶりにzoomで顔を合わせた40代である恩師もそんなことを匂わせて口にしていた。

スティーブン・コヴィーの『7つの習慣』で自分の葬式に誰がきてくれるかを想像してみろ、というくだりがあった。あれも人生の終わりから逆算してみろってことだった。実際どうだろうか。例えば自分が今死んだとして、誰が葬式にきてくれるだろう。形式的に参列するのではなく、本心で弔うためにきてくれるの人はどれくらいいるだろう。逆に、今日亡くなったと訃報を聞いて葬式にいかなければならないと思える友人はどれくらいいるだらう。これは自分の気持ちのことだから把握するのは簡単だ。思い浮かんだ人たちの葬式には、練習を休んででもいくだろう。サッカーや仕事よりも大切なことはいっぱいある。

他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ / ブレイディみかこ

今月は「多様性」について考えてみたく、ヒントになりそうなものを選びながら情報を集めた。いろんな人間がいる世界で、他人を完全に理解することは難しいけれど、それでも知ろうとする努力はしたい。

著者の作品である『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』で「エンパシー」という言葉がでてきた。そのエンパシーについて掘り下げて書かれたのが本作であり、「他者の靴を履く」というわかりやすい比喩を用いて解説されているのでとてもわかりやすく入ってくる。

わかりやすく感じたのは事実なのだが、まだ他人に説明できるほどには理解できてなくて、間違った解釈を出してしまいそうなので内容について話すのは控えたい。

主旨とは関係ないが、面白いフレーズがあったので載っけたい。これに関して特に言いたいことはないけど、相手を理解するってのは本当にむずかしい。

少女漫画で究極の承認欲求を満たす道具としての恋を学んできた女とAVで性を学んだ男が、互いを自分の文脈に引き込もうとする「恋愛」というものの成立はそもそも本来的に無理なことに思える。


もし僕らのことばがウィスキーであったなら / 村上春樹

なぜかはわからないけど、著者の作品は読みたくなる。面白いから読みたいのか、村上春樹だから読むのか、どっちが先かはもうわからない。もちろん小説も好きだが、どちらかというとエッセイの方が著者の感情や言葉がストレートに表されているので好きだ。

著者が「酒というのは、それがどんな酒であっても、その産地で飲むのがいちばんうまいような気がする。それが造られた場所に近ければ近いほどいい」と述べているが、間違いない。

ぼくは山口県生まれであり、山口のお酒と言えば日本酒である。全国的に有名なのは『獺祭』であり、大学時代も大変お世話になったが、個人的に好きなのは『雁木』である。最近は地元には帰れていないのだが、帰ったら必ず飲みたいと思っている。

と言えど、著者が美味しそうに語るのでどうしてもシングルモルトが飲んでみたくなってしまい買ってしまった。シーズンが終わったらゆっくり飲もう。

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1973年のピンボール / 村上春樹

僕にとっての「ピンボール」といえばWindowsであり、あの無料ゲームにどれだけの大切な時間を溶かしたかわからない。そんな僕も今年25歳になり〈僕〉や 鼠 と同い年になった。どちらかといえば〈僕〉よりも「鼠」に焦点が合い、「物事には必ず入口と出口がなくてはならない」という言葉が妙に刺さった。入口と出口はセットでだし、入ったからにはいつかは出なければならない。僕もどこかに旅立つときがきているのかもしれない。転換点というか、変換点というか。

知らんけど。

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