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魚も昔のままだし人間も昔のままという話

 最近、現存する日本最古の釣りガイドブックに関して書かれたネットの記事を見た。「何羨録(かせんろく)」というやつで、時は江戸時代、今からおよそ300年前の1723年に書かれたものらしい。こちらにデジタルアーカイブが公開されている。

 こりゃあ面白そうだ、と思ったのだが全然読めない。達筆すぎて字がわからない。ところどころ漢文調にもなっているので無学な私にはまるでちんぷんかんぷんである。現代語訳を読んでみようかと思ったんだけど、こちらは古本じゃないと手に入らないらしい。今度出張で東京に行った際に、神保町あたりで探さんといかんね。とりあえずのところは紹介としてwikipediaに載ってる情報とかネットに落ちてる不確定情報をひっぱってくる。

 筆者は津軽妥女という黒石津軽家の殿様だ。三方をそれぞれ別の特徴を持つ海で囲まれ、川にはヘラブナや渓魚も豊富という津軽、つまり青森の地は当時から釣り好き達のメッカであったのだろう。ただ、この時代はあの「生類憐みの令」を発布した将軍・徳川綱吉の時代で、とうぜん釣りなんかやってるのがバレるとお家取り潰しクラスのヤバい処罰をくらったという記録が残っている。いやはや、命がけの釣りキチとはなんとも恐縮の至りではあるが、お家取り潰しともなると思いっきり他人に迷惑かけているので、立ち入り禁止の防波堤に神風特攻かけて捜索隊のご厄介になる現代の困った釣り人と、当時は同列扱いだったのかもしれない。とはいうもののこうやって残された書物に罪はない。我々がこれを楽しむ権利も当然にある。

 「何羨録」は3冊構成で、上巻が釣りのポイント、中巻が釣り道具、そして下巻が天候や豆知識という内容だ。まずは場所というのが、今もよく言われる「1に場所、2に餌」に通じるものがあって、なかなか穿った構成になっている。当時から「魚が釣れるところにまず行け!」というのが常識だったのだろう。現代の釣り雑誌なんかは道具や釣り方の紹介に腐心する傾向が強いが、そもそも魚がいないとお話にならないのだ。正直なところ、魚の数が豊富ならば割とテキトーな道具立てでも釣れちゃうのは経験上マチガイ無い。よく釣りをする人からすれば至極アッタリマエの話ではあるが、こういうところが本当に「釣りが好きすぎてもうどうしようもないやつ」が書いた感がある。

 さて、wikipediaから現代語訳を転載させていただくが、この序文がまた秀逸である。

ああ、釣り人の楽しみは“釣果”に尽きる、などというわけではない。
社会的名誉などは重要ではない。いま、自分の世界はこの釣り船の中が全てであり、完結している。
だが生きていくとそれだけで、どうしてもなにかと煩わしい。
だから自分は人生のそんなことにはこだわらず、とにかく無心に、時々は世の中の煩わしいことは忘れることにしている。
つまり
仁(この場合は慈悲や憐憫)の心を持つ者は心静かであることを楽しむし、
智恵のある者は水に楽しむ(釣り)のだ。

ほら!これほどの楽しみがあるだろうか。

wikipedia 「何羨録」

という、これもまた自分の世界に生きる趣味人としての気概を感じられて、けっこう私としてもフルエルものがある。釣りの楽しみの本質的なところをよく突いているのだ。小手先のテクニックを紹介するのに終始して、思想や志の欠けた巷に蔓延る雑誌の編集者どもは爪の垢を煎じて飲め!と言いたい。まあ現代の読者の側が技術偏重主義で、それを求めてると言われればもうどう仕様もないんだけど。


 また中巻には、ナス型オモリや誘導式天秤、ウキなどの今でも現役バリバリの仕掛けが描かれている。材質は変われど、その設計思想や形状は今現在、釣具屋で売っているものとほとんど変わらない。もちろん中には消えてしまったものもあるが、バス釣りで使うような細長いタイプのオモリなんかも書かれている。ということは、我々人間の釣りっていうのはそう大して進歩しちゃあいないのだ。たしかに糸は強くなったかもしれない。リールも壊れにくくなっただろう。とはいえそれで獲れる魚が大きく変わったかというとそんなことはない。江戸の当時だって普通にマグロ獲ってたんだからね。やれイカメタルだのタイラバだの、元々漁具だったのをカジュアルにしただけで本質的には新しいモノというわけではない。服の流行が周期的に回ってくるのと同じで、忘れかけたころに昔の道具を出せばさぞや目新しく感じるだけである。しかしそう思っているのは人間だけで、魚からしたら「おまーら、またそんな古い道具引っ張り出してきて何やってんの?」といったところか。

 ただ、魚の側だってそこまで進化しちゃあいない。進化っていうのは何千万年といったスケールで起こるものである。だから、魚と人間の駆け引きっていうのも未だに良いバランスで推移しているのだろう。とはいえ、人間がその小さな頭で思いつくような小賢しい道具の進化なんて、何億年レベルで自然淘汰の波を生き抜いてきた魚さんのワイルドなフィジカルからしたら微々たる変化である。だから釣りは難しくて悩ましくてそれゆえに釣れると嬉しいのだ、とも思う。釣れないから楽しいし、釣れたらもっともっと楽しい。

 ちょっとまた話は変わるんだけど、「伝統的」だとか「戦前から続く~」だとか言って一部の釣り方だったり漁が時たまメディアなんかで持ち上げられることがあるでしょう。でもそれってそんなに特別なものなんでしょうかねえ。アイヌの伝統的なサケ漁とやらを主張する例の方々のことですよ。それを言っちゃうなら、ナス型オモリを使った天秤仕掛けとかだって300年前の江戸時代から今も現役バリバリの、間違いなく「由緒正しき」釣りなわけ。じゃあそれ使って現代日本の法律を犯していいのかっていう話。「伝統的だから法律とか関係ない!」みたいなのは完全な勘違いなわけで、古の道具や知識を使おうが、漁業権のある海域でウニ密漁したら普通に捕まるでしょうに。ほんならお前さん、釣り場まで歩いて来なさいよ。車なんて使わないでさ、という話でもある。化繊のジャケットも着るなよ。現代的な技術の恩恵を受けながら、現代の法は無視するというのは通らんぞ。

 それにしても「何羨録」、ぜひとも読んでみたいなあ。現代語訳の入手が難しい以上、私が勉強しないといけんのかもしれませんね。

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