第875回 自分を貫きながら生き抜いていく

1、漢詩と詩人その27

『文選』に収録されている作品と詩人を紹介していきます。

ちなみに前回はこちら


2、才を磨けば拾う者あり

今回ご紹介するのは江淹。

祖父も父も県令レベルの下流官人の家柄出身ながら

学問に励み、その才能を見出した南朝宋の建平王、劉景素に引き立てられます。

漢詩を使って諫言を行い、煙たがられて左遷されてしまいます。

それでも後の南朝斉の高帝、蕭道成が噂を聞きつけて登用し、

斉の建国後は高位で遇されています。

崔慧景が反乱を起こした際は追従する余人を尻目に病と称して引きこもっていたのに対し、

後の南朝梁の武帝、蕭衍が挙兵するといち早くこれに従い、

引き続き要職にあったという世渡りのうまさをみせていました。

天寿を全うした彼ですが、実はある時から才能が枯渇し、漢詩を作ることができなくなったというエピソードが伝えられています。

170年ほど先輩の西晋代の詩人、郭璞が夢に現れ、自分の筆を返すようもとめたそうです。

江淹が懐から五色の筆を取り出して返すと、目が覚めてから詩が作れなくなったということでした。

今回ご紹介するのはかなり前半期、建平王劉景素に仕えていた時に詠まれたものです。

3、冠軍建平王に従い廬山の香炉峰に登る

広成は神鼎を愛し (黄帝の御代にいたという広成という仙人はことさら丹薬を愛用し)

淮南は丹経を好めり (漢代淮南王劉安は不老長寿の術を説く書物、丹経を好んでいた)

此の山 鸞鶴を具え (この香炉峰には仙人が乗るという鳳凰が生息し)

往来するは尽く仙霊なり (行き交うのはみな仙人ばかり)

瑤草は正に翕赩として (宝玉のような草花は赤く光り輝き)

玉樹は信に葱青たり (樹々は実に青々と茂っている)

絳気は下りて縈薄し(赤みを帯びた雲は降りてきてあたりを包み)

白雲は上りて杳冥たり(白い雲は上昇して遠くにぼんやりとみえる)

中坐にて蜿虹を瞰(部屋にいながらにして虹を眺め)

俛伏して流星を視る(身をかがめて流れ星を見る)

遐怪の極みを尋ねざれば(辺境の地の不思議さを目の当たりにした者でなければ)

則ち耳目の驚くを知らん(みるも聞くも驚くことばかりだろう)

日は長沙の渚に落ち(太陽は長沙のなぎさに沈み)

曽陰は万里に生ず(折り重なる厚い雲は遠く万里も離れたところでも生じている)

蘭を藉けば素より意多く(蘭の花を敷物がわりにして腰を下ろすといろいろな思いが蘇って)

風に臨めば黙して情を含む (風を受けて言葉はなく、気持ちばかりが込められる)

方に松柏の隠を学ばんとして (長寿の代名詞である松や柏に隠棲する方法を学ぼうとして)

市井の名を逐うを羞ず (世間での名声を気にしていることを恥じてしまう)

幸いに光誦の末を承け (幸いにも主人に従って次の作品を求められ)

伏して後旍に託せんことを思う (恐れ多くも次の者にその任をつなげるようにしようと考えている)

4、香炉峰の雪は?

いかがだったでしょうか。

主人をアゲるわけでもなく、自分の正直な気持ちを漢詩にこめていることが伝わってくるようです。

この絶妙なバランスが世渡り上手につながっていくのでしょうか。

ちなみに香炉峰といえば枕草子ですよね。

こちらは雪の積もった香炉峰を眺めることが風流でした。

中国江西省にある名山、廬山の一角が香炉峰になります。

自分を見出してくれた主君とともに仙人たちが愛しているとされる霊山に参拝する。

眺めるのと実際に足を踏み入れてとでは同じ山でも印象は全く異なるものだ、という当たり前の世界です。

仙人たちの様子よりもその山の景観とそれを眺めた自分の心に向き合ったことが重要なのかもしれませんね。


本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。


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