第741回 忘れられた陶磁器

1、江戸時代のやきもの

本日は本業に関連して調べた内容の一部をシェアします。

江戸時代の遺跡を発掘すると様々な地域で焼かれた陶磁器が出土します。
町内で出土した資料についても、中世までは詳しく調べて報告書等で公表して、展示などでも活用していましたが、

江戸時代の陶磁器もそろそろしっかりとまとめなくては、と思って資料を集めていたところでした。

まず始めは福島県の相馬で焼かれた大堀相馬と小野相馬から。

基本となる文献はこちら。
関根達人1998「相馬藩における近世窯業生産の展開」『東北大学埋蔵文化財調査年報』10


つい先日、供養碑についての著書をご紹介した関根先生です。

 既に20年以上の前の文献ですが、著者が、平成9・10年度の2か年、「東北地方における近世窯業生産の基礎的研究」という課題で科学研究費の交付を受け相馬地方において窯跡の分布調査、採集遺物の資料化、古文書史料の検討等を行ったもので、当地方の陶磁器研究史の到達点となった基本文献です。

2、江戸時代のことでもこんなに新発見が

藩命でまとめられた歴史書『奥相志』によると相馬藩領では良質の陶土や釉薬の原料となる鉱物も産出され、江戸中期から陶器生産が盛んに行われるようになったとされています。

従来は藩の御用窯である田代窯で焼かれた「相馬駒焼」と中村城下の「館ノ下焼」、「大堀相馬焼」が知られているのみでしたが、東北大学の調査で相馬市の小野周辺で焼かれた製品「小野相馬焼」が見出されました。

さらに消費地での出土状況から18世紀後半には「大堀相馬焼」と「小野相馬焼」は器種ですみわけをしていた可能性が高いと指摘されました。

17世紀末に生産が開始され、18世紀には仙台藩領内でも瀬戸美濃産の製品を凌駕するほどの流通量が確認されますが、19世紀初頭になると堤焼などに押されていくことも明らかになりました。

18世紀に大堀相馬焼が出土する遺跡では小野相馬焼もセットで出土することが多く、両者の販売・流通経路が同じであったことも示唆されています。

相馬市内の窯跡調査から見出された小野相馬焼の年代的な変遷を見ると、少なくとも18世紀前葉には生産を開始し、17世紀まで遡る可能性が高いとのこと。

 当初は東海式の軒平瓦も焼いていたことから東海地方との関連もうかがえるそう。

 18世紀中葉までは大堀相馬と器種をすみわけしていたようですが、

19世紀には鉄絵製品や甕類への方向転換を行ったため衰退した、と推定されています。

特徴的な器種としては見込蛇の目釉剥ぎ小皿や見込印花文皿が挙げられます。

 擂鉢も以下の三種に分類されています。

A類:口縁部が玉縁状に肥厚するもの
B類:口縁部直下に稜線を持ち、口縁部に灰釉が上掛けされるもの
C類:外面に凸帯が1条巡るもの

一方で大堀相馬焼は

 17世紀は灰釉丸碗(上写真例)が代表で、高台が小ぶりで体部の丸味が強いものとなっています。
 
18世紀には中碗を主体とする生産体制が確立されます。

製品としては灰釉・鉄釉掛け分け碗(瀬戸美濃腰錆碗写し)と鉄釉流し掛け灰釉碗(尾呂茶碗写し)が特徴的です。

18世紀中葉になると猪口・小坏・灰吹など嗜好品の器種も見られるようになり、

18世紀末から19世紀初頭には鉄絵製品が新たに加わっています。

代表としては煎茶器(土瓶など)下写真参照。

 19世紀前葉にはさらに器種多様化(酒器・調理具・灯明皿)、中葉には餌猪口や植木鉢も見られるようになる。

という変遷がまとめられています。

3、相馬焼の未来

その後の相馬焼は、というと相馬駒焼きの思想を引き継いだ窯跡はわずかに残っていますが、

東日本大震災の影響で粘土採掘が困難になるという苦境もあり、多くの伝統が既に失われてしまいました。

一方で、かつての栄光はまだまだ地下に眠っていることでしょう。

この論考がまとめられてからも発掘調査による出土例は増加していますので
それを踏まえた資料の提示をいずれなんらかの形でご提供するつもりです。

また、本論でも指摘された小野相馬焼の擂鉢に技術的影響を与えたとされる福島市飯坂にある岸窯や競合関係にあった仙台城下の堤焼についても、少し整理してご紹介できるようにしたいと思っています。

写真図版の出典は仙台城跡の資料は仙台市文化財調査報告書第444集より転載しました。

本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。


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