第777回 麒麟の片鱗がみえたと思ったら

1、読書記録121

本日ご紹介するのはこちら


黒嶋敏2020『天下人と二人の将軍ー信長と足利義輝・義昭』

大河ドラマ 麒麟がくる

で向井理演じる足利義輝が独特の雰囲気を醸し出していますね。

今後の展開がどう描かれるのか、史実を学ぶとより楽しみになります。

2、最新の末期室町幕府論

この連載でも何度か触れている

新たな織田信長像
三好長慶を天下人と高く評価する説

など最新の学説を下敷きに、

「天下」と地域、都と鄙の関係性をより深く分析して、横軸とし

足利義輝が築いた二条城の変遷を縦軸として

政治史の変遷を読み解く、と言う試みです。

個人的には足利義輝と義昭の政治スタイルの違いが

明確に描かれているところが最も興味深いモノでした。

端的に言うと

義輝期は

①姻族である近衛家一門で本山派山伏のボスでもある聖護院道増などを活用して遠国の大名同士の紛争の調停に乗り出すことで、将軍権威の維持を図っていた。

②お膝元である京都では三好長慶との対立で、幕府の奉公衆は目減りし、弱体化していた。

一方で義昭期は

①軍事的な同盟者を作り上げることに注力。永禄13年には具体的に上洛命令を題して敵味方をふるいにかけている。

②織田信長の軍事力に依拠し、敵対勢力を駆逐するとともに、殿中御掟を定め、あるべき幕府のスタイルを構築する。


こう比較すると後者の方が深化した政治権力であるかのように見えますが、

著者は客観的な中立者として振る舞うことができた義輝期の政治を一定程度評価し、義昭も信長も継承できなかった点を指摘しています。

そして終章で語られる信長と義昭の協調関係がうまくいったのは

「天下静謐」という共同目標のため義昭が「将軍」であることと、信長が既存の秩序において明確な位置づけをしていなかったことにあると語られ、

義昭が「将軍」としての適性を欠き、公的な中立者としての役割も果たせなくなったからと指摘されています。

自ら各地の大名たちを動員して軍事的存在感を発揮できず、京都を追われて流浪の生活を送った兄や父義晴を反面教師とし

積極性を発揮したにもかかわらず、それが裏目に出て存在価値を失った、と言うのであればなんとも皮肉なものですね。

3、必要なのはバランス感覚

いかがだったでしょうか。

本書を通じて将軍義輝への評価が高いことに驚きました。

一例として奥州伊達氏への対応についてその巧みさが描かれているのですが、

前提として奥州では足利一門の大崎氏が奥州探題として最高位にランクインしていました。

実力ではそれを上回っていた伊達稙宗の代には一時的に「陸奥国守護職」に任じられますが、納得しなかったようです。

変わって次代晴宗の時期には将軍義輝の一字を嫡男に与え、

伊達家の重臣たちに守護代クラスにしか認められない毛氈鞍覆と白傘袋の使用を認めています。

守護代の上司である伊達家は守護に相当する、ということなのでしょう。

さらに明確さを求める伊達氏に応じて、ようやく奥州探題に任じられますが、

書札礼、つまり書状を送る際の儀礼については大崎氏並みがまだ認められていなかったようです。

将軍家側としても大崎氏にもまだ配慮が必要だったのでしょう。

事実伊達家の探題就任以降将軍家と大崎氏の通交が疎遠になっていることをうかがわせる書状も引用されています。

このように巧みに地方大名のバランスをとっていることがわかります。

義輝の政治がもう少し長期政権になれば、その後の歴史はだいぶ違ったものになったのかもしれませんね。


本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。


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