第798回 ミカドは死ぬことも許されない

1、読書記録124

本日ご紹介するのはこちら。

久水俊和2020『中世天皇葬礼史 許されなかった死』戎光祥選書ソレイユ

Twitterのフォロワーさんからおすすめされて手に取りました。

2、こんなにも取り扱いは変化していくのか

天皇は基本的に死ぬことが許されない

このフレーズだけ読むとびっくりしますが、

要は在位中に亡くなった場合はまだ生きているということにして譲位させ

上皇になってから死んだことになる、ということ。

天皇経験者をどう送り出すか、伝統的なマニュアルに基づいて淡々と行われているかと思いきや、

関係者の記録類から復元された儀式は案外時代によって変化しています。

変化のきっかけとなるのは、父から子へとスムーズに皇位が継承される場合ではなく、

イレギュラーな場合に特に多い印象。

最初の画期となるのは87代四条帝のこと。

承久の乱で後鳥羽上皇をはじめ、その皇子達も流罪になってしまったため、

別のイエ、「王家」に属する後堀河帝が即位します。

その子が四条帝になります。

わずか2歳で位につきますが、12歳で御所の廊下を踏み違えて転倒し、世を去るという唐突な展開を迎えます。

皇統はまた後鳥羽系のイエに映ってしまい、

人々の注目もそちらに向かい、葬儀を引き受けてくれる寺院も当初は見つからなかったというから驚きです。

平経高という人が残した『平戸記』という日記には

今度の葬礼は散々だ

と記されているそう。

ここで初めて顕密寺院(天台宗比叡山や高野山などの有力寺院)ではなく、

新興勢力の泉涌寺が葬儀を引き受けたことも画期的な前例となったようです。

またこの時の葬列に加わるのは外戚関係者か近習で親しく天皇にお仕えしていた者に限られる、というのが基本的な姿になります。

これがまた大きく変化する画期は足利義満の時代。

後円融帝が崩御した後の葬列について

現職の左大臣でもある義満は、公家として彼に仕えて家政機関を構成しているメンバーも引き連れて堂々と行列に供奉する、というのは異例でした。

これには政治的な理由はもちろん、義満の「儀礼マニア」的な性格も関わっているのではないか、と著者は指摘します。

といいつつも円融帝の葬列の際の衣装が適切でなく、浮いていたようで

衣紋とよばれるスタイリストのミスではないか、と指摘されているのが斬新でした。

さらに時代は降って戦国時代、正親町帝の頃。

彼の葬送もまた、山科言経の日記「言経卿記」に

前代未聞の様相だ

と記されたように、また画期を迎えます。

一番は葬送に公卿が一人も供奉しないということ。

文武百官が参列した平安時代から、外戚・近臣だけの中世を経て

近世が見え始めた頃にはだれも公卿が参加しなくなるとは大きな変化です。

誰が葬列に参加しているか、という視点だけでこれだけの大きな変化を汲み取ることができます。

それがどう解釈されているのかは、ぜひ本書をご覧になってください。

3、葬列から天皇家の扱いがわかる

さていかがだったでしょうか。

書名には「中世」となっていますが、終章では近世から近代に行われた天皇葬儀の記録が終章で紹介されています。

古代と同様土葬が主体になりますし、

儒教の影響も受け、葬礼は変化し続けていきます。

幕末の光格天皇の葬儀には五摂家全てが参列していますし、

孝明帝も文武百官に送り出されて世を去っていきます。

明治帝のころになると、仏教や儒教の影響を払拭しようと試みられていきます。

これからも時代の要請に答えて制度は変わっていくのでしょう。

それでも変わらず天皇に託される世界もあり続けることと思われます。


本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。







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