第676回 先入観を捨てて素直な心で世界をみる

1、禅語に学ぶ 第三

松原泰道2011『禅語百選』から一つ選んで紹介するシリーズ。

今回はたまたま出会った禅語とともにご紹介しようと思います。

ちなみに前回はこちら。

2、雪はどこに降るか

たまたまある仏堂で木簡を見つけまして

その中央に大きく書かれていたのが

好雪片々不落別處

という言葉。

検索してみると「好雪片々別處に落ちず」と読み、

前回もご紹介した『碧巌録』という書物にあるそうで

ほう居士という禅僧が舞い落ちる雪を眺めて

どの雪片も別処に落ちず

と言ったところ、そばにいた雲水が

ではどこに落ちるのですか?

と尋ねて叱責されたというエピソードが紹介されています。

素人ながら無理に解釈しようとすれば

理屈で理解しようとせず、雪をみようとする自分と見られる雪を相対的に捉えれば自分もひと片の雪も変わりがない。

大いなる宇宙の中では、ただ己があるのみ。

雪片が落ちるのもここしかない。

という感じでしょうか。

わかったような、わからないような。

そこで『禅語百選』を紐解いてみます。

著者の松原泰道が瑞巌寺の住持を務めた盤龍老師から送られた言葉で

不可及其愚

その愚には及ぶべからず

というものがありました。

著者は

利口にはなれてもバカになるのは骨が折れる。その尊いバカになってこい

という餞の言葉として理解しています。

禅宗の僧侶は大愚とか絶学とか無学とか

自らを評して憚りません。

これもまた単なる謙遜の言葉ではなく

悟りの境地を超えた「愚」の境涯は容易にたどり着けない

という意味を示していると言います。

理屈、ことわりで考えれば、空から降る雪は必ずどこかに落ちます。

それは自らを雪を観測している個体として規定しているからにほかなりません。

雪だろうと人だろうと広い世界の中でははかない存在。

ここに雪が落ちていると感じるのは人間の視点であり

雪からしてみると何かに触れて溶けてしまう、ただそれだけのこと。

人の一生もふらふらと降ってきてはかなく消えてしまう雪のようなものだ、ということなのでしょうか。

沈思黙考するのに邪魔になる知識は一旦置いて

愚かな存在として世界を眺めてみましょうか。

3、無心になるには答えのない問を続けること

いかがだったでしょうか。

考えれば考えるほど思考が浮世離れしていってしまうような気がしますが

これこそが禅の目指すところなのでしょうか。


さて恒例になってきた、告知もあと4回だけさせてください。

3月1日に宮城県松島町で、講演会をメインとした歴史イベントを実施します。

入場は無料で、近代の地域史について、最先端の成果を目の当たりにすることができますよ。

100名が上限の会場に事前申し込みだけですでに80人を超える応募がありました。

ですが、いつもの常連さんだけではなく、

このようなイベントに参加したことのない方にもぜひ足を運んでいただいて

感想などをオフ会で語り合いたいと思いますので、

少しでも興味を持たれた方はこのnoteにコメントでもいいですし、

TwitterのDMでも、Facebookのメッセージでも構いませんので

ご連絡いただけると幸いです。

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