第582回 一味違った紀行文

1、私もかくありたい

仕事で我が町を訪れた文人たちの紀行文に目を通していると

それぞれ個性的な人柄が文章に現れていて面白いのですが、

中でも一際言葉選びやモノを見る視点にセンスを感じた人がいましたので本日はそれをシェアできればと思います。

2、晴耕雨読から学問で身を立てる

その名も長久保赤水。

彼は享保二年(1717)年に常陸国多賀郡赤浜村(現在の茨城県高萩市)に生まれます。

リンク先はPDF 長久保光明「長久保赤水の日本地図編集のあらまし」

元をたどれば九州の大名大友氏の一族で、

今川氏に仕えて駿河国駿東郡の長久保を名字の地としますが、

主家の没落後は常陸で帰農し代々庄屋を務めていたようです。

赤水は幼くして家族を失い孤児となりますが、隣村の医師であった鈴木玄淳に学び、

「竹林の七賢」に ちなんで「松岡七友」と称される同志と切磋琢磨して頭角を現します。

赤水が37歳の時に彼らが作った漢詩が水戸藩5代藩主の徳川宗翰に認められ、褒美を授かっています。

44才の時に陸奥国勿来関から松島を経て出羽三山にのぼり、新潟から会津、白河、大田原 を経て常陸に戻る旅に出ます。

実はこれは伏線になっていて、

翌年から史料や既に発行されていた日本地図などをまとめて新たな日本地図を作成することを思い立ちます。

この地図は足掛け16年の月日を経て安永三年(1774)に完成を見ます。

伊能忠敬の「大日本沿海與地図」が完成するより40年も前で、かのシーボルトコレクションにも複数含まれているといいます。

版を重ね、数多く出版されること で、庶民の目にも多く触れていたと考えられます。

その後は6代藩主の徳川治保の侍講となるとともに、『大日本史』の地理志編さんにも関わっていきます。

この経歴をみると在野から苦学して様々な分野で成果を挙げた成功談として大変興味深いですね。

3、みちのくへの旅

先述した陸奥への旅は30年以上たった1792年に『東奥紀行』としてまとめてられます。

その内容は漢学の素養に裏打ちされた、格調高い文体と歯に衣着せぬ物言いが妙にマッチしてているような印象です。

いくつか引用して紹介しますと、

まずは五大堂の記述。

海中に斗絶し、橋を架けて通ず。橋の高さ水を去ること二丈許にして、結構常に異なり。 板狭く間豁くして梯桄子の如く、下視すれば則ち海水藍の如く、同遊の人皆趑趄す。余笑 いて曰く、心定まる者は能く天台の石梁をも渡る、況や此の小橋をや、足を著くる外皆無 用の地なり、間豁何ぞ畏るるに足らんと。皆戦競して過ぐ。独り半衛という者のみ終に渡 ること能わず。

現在も五大堂に渡るには「透かし橋」という横木が透けて見えるような橋を渡っていくのですが、おそらく今よりもその数が少なかったのでしょう。怖がって渡ることのできなかった同行者の名前までさらしているのが彼らしい。

松島の眺望を見た感想も秀逸です。

眺望の美なること絶倒せんとす。燧を鑽り烟を吹く。昏月清暉、乃ち謝霊雲の忘帰の句を誦す。

夕暮れの月の輝きを眺めながら煙草をふかして、中国の詩人謝霊雲を想起する。なんと洒落ていることでしょう。

頃之、逆旅に還りて餐を喫す。主人慇懃に円福の因革開祖の旧事を談る。虚実相半し、聞 く者欠伸す。

夕食時に宿の主人が話してくれた、瑞巌寺の沿革について、半分は嘘だろうと見抜いて欠伸していた、というのも遠慮がないというか。

いかがだったでしょうか。

彼の『東奥紀行』にはまだまだ印象的な記述がありますから、いずれまたご紹介したいと思います。

本日もお付き合いくださりありがとうございました。

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