第1343回 研究会で花の城跡踏査
1、こんなに整備されていたとは
本日は幹事をやっている研究会の仲間と城跡を踏査してきたのでそれを紹介します。
宮城県柴田町の船岡城跡。
県内では桜の名所として知られており、江戸時代の伊達騒動という事件の登場人物でもある柴田外記が居城としていました。
近年、大雨被害で崩落した法面から中世の陶磁器が出土したことから、業界内では注目を集めていました。
2、僅かな中世の痕跡を探る
天気も抜群に良く、想定していたよりも汗ばむほどの気温。
町の文化財担当者の案内で、考古学会のメンバーと踏査する、ってやっぱり最高ですね。
あちこちで、この石はどうだ、とかここからの眺望はどうだ、とかはじまってどこに耳を傾けていいのか忙しい感じです。
集合場所とした「しばたの郷土館」はかつて城の大手門があったあたりだとのこと。
そこから見上げる標高136mの独立形状の丘陵が船岡城跡です。
東西800m、南北60mほどの広がりをもち、山頂部の本丸と隣接する二の丸、東に離れた三の丸を中心に帯曲輪状の平場が随所に確認できます。
大手門からまず「みだれ坂」という屈曲した登坂路からたどり着く三の丸は、すでにイベント広場となって整備されています。
北西の縁辺部には高まりが残っており、土塁の名残なのか、整地残土を寄せたものなのか。
白石川や街道を見下ろす北側は櫓でもありそうな立地。
そこから二の丸まではまた既に公園整備された道をけっこう歩きます。
観光用のケーブルカーも併設されているのです(トップ写真参照)
本丸から横矢がかかりそうな一段下の登城路周辺は
自然石の大石がゴロゴロしていたり、
門を作るのにちょうど良さそうな地形になっていたり。
急峻な斜面は先年の大雨で法崩れして、この辺りで青磁の破片も見つかったとのこと。
ようやく辿り着いた本丸跡もライトアップ用の設備があったり、大きな観音様がいたりと中世の面影は皆無です。
ただそこからの眺望は海道と東山道、白石川と阿武隈川の合流地点を見通すことができる絶景でした。
本丸からさらに北には堀切を挟んで、やや小さな平場が続いており、
街道に睨みをきかせるには絶好のポイントです。
南側の二の丸も同様にフラワーガーデンとなっていましたが、整備前の確認調査では縁辺部に柱穴が見つかったとのこと。
やはり近代遺構の掘削で失われつつも、一部に中世の痕跡が残存しているようですね。
そして郷土館に降りてきた後はじっくりと出土遺物の観察会。
詳細は省きますが、15世紀頃に年代は集約していきそうな印象。
そして断片的ながらも格の高い遺物もみられることにも注目です。
しかしながら、1351年に船迫合戦とよばれる南北朝時代の戦いのあと、
伊達家の支配が及ぶ明応6年(1497)までは文献が少なく不明瞭な時期のようです。
今後の研究の発展に期待ですね。
3、土地勘を得る
実は先週、本業の方で柴田町の槻木で会議があり、続いて岩沼市の原遺跡の現地説明会と3回あまり日を空けずに続けてこのあたりを訪れました。
同じ県内とはいえ、県南地域はあまり土地勘がない状況でしたが、
地域を抑える拠点的な城郭を観察し、その眺望を共有することで
かなり地域のイメージを掴むことができました。
やはり現地に行くことは大事ですね。
今後もむしろあまり行ったことのない地域を対象にして研究会を企画すると
個人的には知見が深まってよいのですが。
本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?