第707回 事実は案外偶然の産物だったりする
1、読書記録108
今回紹介するのはこちら
天野忠幸2018『松永久秀と下剋上:室町の身分秩序を覆す』
戦国時代の三大梟雄と呼ばれた松永久秀の人物像がここまでわかってきたのかと
爽快感さえ感じる著作でした。
ちなみに前回の読書記録はこちら
2、新旧三大功績
松永久秀の人柄を表すときによく引用されるのが
『常山紀談』 (江戸中期の儒学者湯浅常山が記した戦国武将の逸話集)
徳川家康が織田信長に対面した際、松永久秀を紹介して曰く、常人にはできないことを三つもした男だと。将軍足利義輝を殺し、主君の三好長慶の息子義興を殺害し、奈良の東大寺大仏殿を焼いた。
という部分。
しかしこれは大いに間違っているというのが本書では明確に示されています。
簡単に言ってしまえば、
①将軍足利義輝を殺したのは松永久秀の息子久通であり、それとて主君である三好義継らの意を受けたことによるもので、久秀自身はむしろ義輝の弟義昭を保護し、のちに重用されるなどしている。
②三好義興については後見役としての立場として、その死を嘆き悲しんでおり、久秀は三好本宗家には忠節を尽くしていることが随所に見られる。
③東大寺大仏殿の焼失については敵対する三好三人衆が東大寺に陣取ったため、戦乱の最中での失火であり、意図的なものではない、と考えるのが妥当だということ。むしろ三好三人衆側が火をかけて撤退したことを記した資料もあるということ。
となります。
逆に著者の記述に基づいて、より確かな資料から読み取れる松永久秀の優れた点を3つ挙げてみます。
①立身出世
②多聞山城の築城
③人材登用
少しずつ掘り下げると、
①松永久秀の出自は未だ不明確な点が多いとはいえ、摂津国の土豪層の出身で決して有力な武士ではなかったということが推定されています。
主君の三好長慶が畿内に基盤を気付くために新たな家臣層を確立しようとする中で見出され、
吏僚としての才、外交調整能力、軍事的な力を発揮して出世していきます。
足利義輝の直臣格である御供衆に加えられ、さらには主君長慶・義興親子と並んで桐の御紋を拝領するまでになります。
官位も従四位下という義興と同列ということで、
朝廷と将軍双方から主君と同等、それも足利一門に準ずるほどの地位を一代で獲得したことになります。
②久秀はそれまで武家が守護を設置できなかった大和国を任され、前代未聞の城を築きます。
これまで三管領の畠山氏も、その後の赤沢朝経や木沢長政といった在地の有力者も、後の豊臣秀長ですら興福寺に遠慮して奈良の町に城郭を構えられなかったのに、というところが重要です。
しかも「四階ヤクラ」「高矢倉」と呼ばれる天主をはじめ白壁と黒い瓦が対比をなす壮麗なもので、
内装は幕府御用絵師の狩野派が手掛け、
茶室や庭園の造作にも自ら細かな指示を出して仕上げたとされます。
「見せる」=「魅せる」城郭としての嚆矢として新しい時代を代表するものになったのでしょう。
赤沢朝経の侵攻には郷民たちも抵抗したのに
多聞山城の棟上には奈良中から見物客が訪れたといいます。
人心掌握術こそが成功の鍵なんですね。
③もともと小さな土豪出身の久秀には松永家の譜代、というような家臣がいません。
そこで多方面から人材を集めることになるのですが、その顔ぶれはなんとも多彩です。
筆頭家老の立場にいたのは竹内秀勝で、彼の兄は久我家の家司を務める公卿ですし、
義理の兄で武家伝奏を務める広橋国光、
明経博士の清原枝賢など公家の出身者も多いようです。
幕府奉公衆の結城忠正や
足利一門で日本一の弓の名手とされた石橋忠義、
斎藤道三に美濃を追われた土岐頼次など家格の高い武士層もみられます。
国衆や土豪という在地の出身者としては
楠木正成の子孫を名乗る楠正虎
大和国人でのちに剣豪として名を轟かせる柳生宗厳
熱心なキリシタンとして知られる内藤如安は久秀の甥にあたります。
高山右近も父の代から松永の配下にいたようです。
このように自らも本来の家格を超越した存在になろうとしている松永久秀の下に集う家臣たちも出身も様々だったようです。
彼らを適材適所で活かしまとめる能力が久秀にはあったということでしょう。
3、正しいサイクルをまわせ
いかがだったでしょうか。
専門家が資料に基づいて従来の俗説の誤りを明確に指摘し
知識を更新させてくれることほど爽快なことはありません。
この新たな人物像を受けた感度の高いクリエイターが新たな創作物を世に出して
一般の認識も改まっていく、
その繰り返しが歴史像を深化させていくことでしょう。
松永久秀といえば、現在放送中のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」での
吉田鋼太郎さんの演技が光っています。
これを機に注目を集めるようになればいいですね。
本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
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