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地理探究の授業で演劇!?その時、生成AIは!?

今から5年ほど前、同僚の国語の先生から、平田オリザさんの『演劇入門』に「演劇は生きる練習」とあるんだと、熱く教えてもらった。

その年一緒に、文化祭で演劇パートの顧問をしてからというもの、「いつか授業でもできないか」と機会を探ってきた。

美濃山小学校の取り組みが、背中を押してもくれ、意を決して今年度の秋に、高校2年生の地理探究の授業でやってみることに。

 今、子どもたちには、学校でこれまで以上にさまざまなことを学び、身につけることが求められるようになっています。知識の習得だけでなく「活用する力」も、社会で生き抜くための「コミュニケーション能力」も、といった具合にです。
 けれども、そこで子どもたちは、ただ求められるがままに何かを身につけていくというのではなく、自分が知らない世界にワクワクしながら、そして喜怒哀楽さまざまな感情を経験しながら学ぶことができているのでしょうか。自らの感覚を働かせ、それに根差した想像力を発揮するようにな学びになっているでしょうか。

はじめに より



「高校の授業、しかも地理で演劇?」という疑問の声が聞こえてきそうだ。もちろん、職員室でもそうだった。

それでも、やろうとこちらが覚悟を持った理由はいくつかあるが、この授業で僕が、学習者や学習空間である教室に求めたのは、余白とクリエイティビティだった。


高校2年生の二学期って、どうも授業が殺伐としがちだ。
お前の授業に問題がある、薄っぺらい経験談で語るな、とぶった切られそうだけど続ける。

それぞれに、いろんな理由があるのだと思うが、大学受験での合格という一つのゴールと、自分の現在とのギャップに実感を持って苦しみ始める頃が、おおよそこれくらいの時期なのかなというところに落ち着く。
ミスしたくない、今まで以上に失敗が怖い、できないことはダメ、終わってる…こんな空気が充満する教室は本当に息苦しく感じる。
こんな気持ちが学習者たちを支配するようになると、当然、余裕もなくなってきて、気づいた時には、周りに座っている同級生と中々手を取り合えなくなってくる。その結果かどうかは置いておいても、協働のハードルが知らないうちに上がっていっているように見えてくる。
これは中々になかなかだ。

よし、いっそのこと、思いっ切り失敗してもらうことにしよう。
まさに、「生きる練習」だ。

こんな感じで伝えた時の、学習者たちのブーイングは、想像の通り(笑)
「お前が、やりたいだけだろ」から始まった授業だったのかもしれないが、演劇当日の教室のあの空気は、過去一、温かかったと思う。


ところで、今回の自分の授業では、演劇の台本作成に向けて、ChatGPTとGeminiによるフィードバックをかけている。生成AIの隆盛に沸いた昨年度から、生成AIの教育利用が進んでいる。中でも、ドリル的な利用に注目が集まっている印象だ。これ自体は、悪いことではないし、教育効果も十二分にあるとは思う。

ただ、自分の授業では前提として、学習者の余白を生むこととあわせて、クリエイティブな学び(創発)につなぐことを指向して、生成AIを使っていきたい。昨年度以降、自分の中でこの点だけはブレてないと思う。


実践はつづく…

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