見出し画像

映画『罪の声』時代の節目に埋もれてしまった声を拾い上げる、信念と意義の物語。

 『アンナチュラル』⇒『MIU404』を経て、今や「野木亜紀子」「星野源」のお二方の名前を見かけるとつい飛びついてしまうようになった。人気漫画の実写映画化としてはこれ以上ない正解を叩きだした『アイアムアヒーロー』『俺物語!!』も野木さんが手掛けられていたと後で知ったし、星野源さんについてはミュージシャンとしての経歴を今さら履修し始めている。この2020年に「恋ダンス」を知った、流行へのアンテナが錆びついた私は、今になってようやくムズキュンを経験しているのだ。

 そんなお二方の再タッグとなる映画『罪の声』、予告編もあらすじも調べることなく、朝一の上映回の席を予約するくらいには勝手な信頼を置いていたのだが、その期待を遥かに超える人間ドラマの厚みとメッセージ性、エンタメとの両立に打ち震えている。とくに、今や「脚本:野木亜紀子」はとてつもないブランド力になっているはずだ。一生ついていきます。

1984年に発生した、日本初の劇場型犯罪。食品会社の社長誘拐、商品への毒物混入、身代金の要求といった犯行で株価暴落や工場の閉鎖などを引き起こし、警察を挑発するユニークな犯行声明をメディアに送り続けた犯人グループは誰一人捕まることなく、35年を経て時効を迎えた。
大日新聞記者の記者・阿久津英士は、時代が令和へと移り変わる今だからこそ昭和の未解決事件を今一度追う企画を命じられ、取材を重ねていた。一方、京都でテーラーを営む曽根俊也は、父の遺品の中から一本のカセットテープを発見する。その中に収録されていたのは、かつての事件で使われた犯行声明のテープ。その声の主は、幼い俊也自身だった。
自分の声が犯罪に使用されていたことに驚き、事件の真相を追い始める俊也。少しずつ明らかになる謎と、阿久津との出会い。その邂逅は、日本全土を揺るがした戦後最大の未解決事件に隠された哀しき人生と向き合うことになる。

 昭和の未解決事件「グリコ・森永事件」を題材にした、塩田武士氏の同名小説を映像化した本作。その事件はとてもセンセーショナルで、35年も警察の追っ手から逃げ切った犯行グループの鮮やかさは、確かに興味をそそるものだ。その真実を知りたいと思うのは当然で、時効を迎えた今だからこそ語られる真実があるのではと、阿久津に取材を命じる新聞社の意向も、確かにわかる。

 一方で、事件に関わった当事者たちの境遇や人生には、読者は何ら責任を負わない。真実を知りたいと思う傍らで、事件によって損なわれた物や人の運命には、見向きもしない。そうした無責任さを自覚しないまま、例えばSNSを通じて関係者に心ない言葉を浴びせたとしたら、それもまた「罪」を帯びてしまう。「ギン萬事件」と呼ばれた作中の劇場型犯罪は、大衆を熱狂させたその裏で大勢の人生を狂わせ、それが今も続いていることを鮮烈に描き出す。

 ここで問われるのが、時効となった未解決事件を今掘り返すメディアの意義だ。事件は時効を迎え犯人を裁くことは出来ず、事件に関わりを持ってしまった罪なき人(俊也)を苦しめてしまうかもしれない。そんな仕事になんの意味があるのか。ジャーナリストとしての真相究明への興味と、倫理の狭間で苦しむ阿久津。

 話は変わるが、先に挙げたドラマ『アンナチュラル』にて、「法医学は未来のための仕事」という台詞がある。ケガや病気に苦しむ生者を助けるのが医療で、死者を解剖し死因を究明することに何の意味があるのか、という言葉に対する回答で、『アンナチュラル』はまさにそれを突き詰めて描いた作品だった。どんなに手を施したとて、死者は蘇らない。だが、正確な死因を知ることで今生きている人を死なせず、あるいは残された人たちの心を救うこともある。不審死で片付けられていたらパンデミックを防げず、死者の尊厳を守れず遺族がバッシングの標的になっていた、だからこそ法医学が必要なのだと。助けられなかった人の無念を背負い、その人生に意味を与えてあげることが、法医学の意義なのだと。

 過去に終わった事件を暴くことに、なんの意味があるのか。事件を追う阿久津と俊也は、そのことに苦悩する。事件によって理不尽に人生を奪われてしまった人々は大勢いて、声が犯行に使われた俊也と二人の子どもは、永遠に引きはがすことの出来ない十字架を背負わされてしまった。そんな人たちに真実を突き付けても、もはや奪われた過去は取り返せない。

 それでも、残された未来を取り戻すために、真実を追う必要がある。メディアとしての過去の汚点や責任を背負ってでも、やる意義がある。それをジャーナリズムと呼ぶのだろうと、本作は訴えかける。ただ大衆の興味を注ぐための器として事件を消費するのではなく、埋もれてしまった名も無き人々の声を拾い上げ、今を生きる事件被害者を救うために取材を重ねる。お仕事モノとしての「誠実さ」を『アンナチュラル』同様に感じ、それこそが作り手の信念であることに涙がこみ上げる。原作は未読なため元から存在する要素という可能性もあるが、野木亜紀子さんの作品で最も感銘を受けたテーマ性が過去作から受け継がれ、それを原動力に躍動する登場人物の一挙手一投足に目が離せなくなる。

 基本シリアスな作風でありながら、小栗旬と星野源のささやかだがグッとくるバディ描写もあり、クライマックスはエモーショナルな展開のつるべ打ちが待っている。不謹慎な物言いだが”面白くて興味深く”、それでいて社会派ドラマとしての矜持を持ち合わせていて、最後には微かな希望で幕を閉じる。もはや「お見事!」という一言でしか表せない、一級のエンターテイメント。無限列車を降りた後、ぜひ立ち寄ってほしい一作だ。

以下、ネタバレ含む

 ところで、『MIU404』の最終話に仕掛けられたあるギミックから地続きで、本作もまた「時代」というものに敏感だ。原作小説の舞台は2015年(Wiki出典)だが、映画版では2019年。元号が移り変わるこの年を舞台に選んだのも、恐らくは意味あってのものだ。

 終戦から60年以上が経ち、当時を知る方々もお亡くなりになっていったため、あの時代の空気を肌で感じ、語れる人は年々減っているという。昭和の未解決事件として持て囃された「ギン萬事件」も、月日が経つほどに真相究明は難しくなっていっただろう。犯人たちが亡くなりでもしたら、真相は闇の中だ。

 時代は昭和から平成へ、そして令和へと移った。もし今このタイミングでなければ、生島望の声は母に届かず、総一郎は絶望の中で死を選んだだろう。時代の節目で埋もれていった犠牲者の声を阿久津と俊也が明らかにしなければ、悲劇は積み重なっていく一方だった。二人が守ったのは、今を生きる残された人たちの心、死んでいった人の尊厳である。全てが葬られる前に、彼らの勇気と辛抱強さがあったからこそ、遺族の生きる未来が形作られたのだ。


この記事が参加している募集

いただいたサポートは全てエンタメ投資に使わせていただいております。