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それが偽物であったとしても。『Fate/stay night [Unlimited Blade Works]』(アニメ)

 『Fate/Zero』から『Fate/stay night』へ。正義を貫きたいという願い、あるいは魔術師としての責務に駆られた大人たちの想いは次世代に託され、新たな聖杯戦争が始まる。劇場用作品と見まごう美麗な映像と重厚な音楽で紡がれた全26話は、TVアニメとしては破格の、ゴージャスな印象を受けた。

 今なお熱狂的なファンを生み続ける『Fate』シリーズ。その原点たるPCゲーム『Fate/stay night』には三つのルートが存在し、その中の一つである「Unlimited Blade Works」をアニメ化したものが本作にあたる。なお、同ルートは2010年にも劇場用アニメとして映像化されており、その他のルートについても「Fate」ルートは2006年に、「Heaven's Feel」ルートは全三部作による劇場用アニメシリーズが進行中である。

 獲得者の願いを叶えるとされる「聖杯」を巡る、7組の魔術師(マスター)と使い魔(サーヴァント)同士のバトルロイヤルという基本設定は全ルート共通の土台とし、本作では遠坂凛とアーチャーの二人をフィーチャーしたシナリオが展開されてゆく。亡き父が成し遂げられなかった聖杯獲得のため聖杯戦争に参戦する凛と、皮肉屋でミステリアスなサーヴァントのアーチャー。そのアーチャーの正体と真の目的が明かされることこそ、本シナリオの目玉となっている。同時に、シリーズの主人公たる衛宮士郎の信じる正義の歪み、その真贋に迫っており、個人的には「我が意を得たり!」と唸ってしまった。

感想(ネタバレ含む)

 「正義の味方」とは衛宮士郎の理想であり、命の恩人にして育ての親である衛宮切嗣が成し遂げられなかった夢である。全てを救いたい、大を守るために小を犠牲にしない、どんな窮地をも乗り越える最善の一手。その理想のために聖杯を求めた切嗣の顛末は『Fate/Zero』で描かれた通り、聖杯の本性を知ることで残酷な結末を迎える。そんな切嗣を現世に引きとめたのは士郎の存在であり、結果として冬木の街に大火を放った「聖杯の破壊」を命令した張本人である彼にとっては、唯一の希望であった。

 そうした父の夢や理想を受け継ごうとする士郎の中に芽生えた、ある種の強迫概念的な正義感。自分よりも他者を優先し、誰かを救うためなら自己が傷つくことを厭わない、危険な思想。作中で凛やギルガメッシュが言及する通り、自分を省みないその思想は人間社会の常識から逸脱した、歪みとしてとらえられる。正義を成したいという心と、それに見合った力を持たないという現実のギャップに対し、士郎自身がどのように向き合うのか、という葛藤が不足していた「Fate」ルートでの彼の言動は、今思い返しても不快な気持ちを抱いてしまう。

 その上での本シナリオの大仕掛けとは、士郎の理想を叶えた未来の自分自身たるアーチャー=英霊エミヤが、その理想が誤りであるとして、士郎の殺害を図る、というもの。すなわち、自分の中に潜む弱さや葛藤と向き合い、それに打ち勝つという普遍的な成長物語を、本作は描こうとしている。

 言うなればアーチャーは、他者という形で現界した、士郎自身を映しだす鏡である。アーチャーは、士郎の正義感とは切嗣の願望を受け継いだだけの「偽物」「偽善」であることを責め続け、それに準じたが故に背負うことになる絶望を、士郎に訴えかける。誰かを助けるために誰かを殺し続ける苦悩を背負う者が、正義の味方であるはずがないと。正義の体現者という理想への疑念と諦観を象徴するアーチャーこそ、士郎が抱いている強烈な自己否定の具現化なのである。

 この場において士郎は、自分自身から突き付けられた未来の限界に対し、「それでも」と言い張れるだけの強さを求められる。どんなに悲劇的な未来が待っていたとしても、己の信条を曲げずに生きるという決意を、もう一人の自分に示さなくてはならない。願いを叶えるための手段として聖杯に頼るのではなく、自身の内面に勝利することでの理想の成就を、本作は尊いものとして描く(聖杯に願った者に訪れる悲劇は『Zero』で描かれる)。

 そうした自己との対話・決闘において士郎が導き出した結論は、願いそのものが自分のものではない偽物だったとしても、それを美しいと感じた自分自身の感情こそは本物であること、誰かのためになりたいという願いを信じ続けられるなら、後悔はしないという確信である。

 文字にすると陳腐に感じられるかもしれないが、それこそがアーチャーが忘れ去ってしまった「衛宮士郎」という人間の根底であり、それが自分自身の口から発せられたからこそ、その確信を認めざるを得なくなる。自分を否定するために過去の自分を殺しに来た男は、逆に過去の自分によって救われ、己が人生の意味を再確認する。かつての自分が信じた信条と、それに邁進した道程に間違いがなかったと確信して、成仏したように去っていくのだ。かくして、士郎は迷いを払拭し、自分自身に打ち勝ったのだ。

 同時に、アーチャーが辿った正義の味方としての生き方は、衛宮切嗣の人生とも合致する。一人の犠牲も生まず全てを救うことを願う二人は、血のつながりこそ無いが親子のように似た者同士である。その点においてアーチャーとの闘いは、切嗣との闘いという意味も内包している。自分自身の迷い、そして父親を同時に乗り越える強大な試練に打ち勝った士郎は、内面的にも大きな成長を遂げたと言っていいだろう。

 また、士郎=アーチャーの魔術の本質は「贋作」であることも強調して描かれるのだが、これは最強の宿敵であるギルガメッシュに唯一対抗しうる戦術として、肯定される。偽物が本物を凌駕する最終決戦は、己が偽物であることを受け入れ強くなった士郎だからこそ成し得た、最高のカタルシスに満ちている。勝利のロジックが物語とリンクしており、視聴者の感動を喚起する、素晴らしい結末だった。

 一人の少年の成長物語と言い切るには、あまりに多くの血が流れ、人が死んだ。そんな凄惨な物語でありながら、どこか爽やかな解放感さえ湛えたハッピーエンド。まだ何者でもない少年が自分自身によって未来を閉ざされ、それでも己が信条を曲げず立ち向かう姿は、現実を生きる私たちにとって眩しく映る。たとえその果てが荒野に行きつくとしても、である。

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