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極東ラジオ アーカイヴ(宮沢和史+佐野元春 2003年11月)

※ 『極東ラジオ』とは1997年4月から2003年12月まで、関西FM COCOLOをキー局に352回放送された2時間の音楽番組。メインDJは宮沢和史(THE BOOM)と、音楽ジャーナリストのポール・フィッシャー。

■ 2003年11月29日放送 第348回

「初対面です。大好きな大先輩です」という宮沢和史の紹介で登場したのが、今回のゲスト佐野元春さんです。

宮沢 佐野さんの作品をずっと手がけている駿東宏さんというデザイナーの方や、佐野さんとお仕事をなさってる方と一緒に仕事をすることはずいぶんあったんですが、佐野さんにお会いするチャンスはこれまでなくて、今回をずっと楽しみにしていました。

佐野さんのデビューは1980年。『バック・トゥ・ザ・ストリート』というアルバムでした。

宮沢 (佐野さんのデビューした)1980年というと、僕が中学3年ぐらいで、ちょうど自分がロックバンドを始めた頃です。その頃、佐野さんの音楽を聴いて“傷ついてるんだけど走って行こうぜ”という感じがして。自分自身を省みると、僕はもっと弱いような気がしてたんです。だから佐野さんの音楽を、僕は一緒に走って聴いていたのではなくて立ち止まって、羨望じゃないんけれどどうして自分は走れないんだろうと、地団駄ふみながら聴いてたんです。そのあと、1981年からNHK-FMで始まった佐野さんの番組『サウンド・ストリート』(元春レイディオ・ショー)、完全なる音楽番組でしたが、そこから得る知識であるとか、音楽家の振るまい方であるとかにすごく影響されまして、いつか自分がラジオをやるならこういうスタイルでやりたいなという気持ちがありました。だから今日、佐野さんに来て頂けて、何か自分の原点に戻ったような気がするんです。

佐野 光栄です。

このあと、佐野さんがデビューした当時、1980年頃の佐野さんをとりまく環境についてお話を伺いました。当時を振り返り、「僕が曲を作るのによい環境、僕がステージに立つのによい環境、僕の音楽を聴いてくれる人たちとのよい関係、そういったものは周りに何もなかった」と語る佐野さん。でもその一方、自分の音楽が多くの人に聴いてもらえることに「わくわくした気持ち」があったと。
佐野さんがよい環境を作るためにやってきたこと(宮沢曰く「インフラ整備」)、佐野さんが作り出したインディペンデントなメディアについて、この日のトークは進んでいきました。まずは極東ラジオに多大な影響を与えた佐野さんのラジオ番組について。

佐野さんが月曜日「元春レイディオ・ショー」を担当していたNHK-FMの音楽番組『サウンド・ストリート』。オンエアされていたのは1981年4月から1987年3月までの6年間。

宮沢 佐野さんは番組に関するすべてのこと、内容から資料集め、原稿書きまで全部ご自身で携わっていたとお聞きしたんですが、それは本当だったんですか?
佐野 全部やっていました。
宮沢 それは先ほどの音楽を伝えるための環境作りには絶対必要ということだったんでしょうか。
佐野 1981年というのは放送の分野におけるロックやポップの新しい夜明けというか、聞き手の方で新しい音楽番組を求めていた時代だったんじゃないかと、今振り返って思うんです。ただ曲の紹介があってレコードをかけるというだけじゃなくて、その音楽が僕たち聞き手の生活の中にあるということを指し示していく音楽番組。ただの音楽紹介にとどまらず、ロックンロール音楽やポップ音楽は僕たちの生活の中の大事な要素なんだ、道具なんだと意識した番組がそれまでにはなかった。だから、そうした番組を作りたいというのが最初にありました。商業放送局よりも、もっとクラブ活動的な、斬新なアイデアが通ってしまいがちな雰囲気が現場にあった。僕が考えるクールなロック、ポップ番組の実験が比較的NHK-FMだからできたという見方も、あるんじゃないかと思う。

佐野さんがその番組の中で積極的に紹介していたのが「これからのアーティスト」。佐野さんは各都市のライブハウスをまわって、ライブハウスのディレクターたちに「この街でいちばんイキのいいバンド」の演奏テープをもらい、それをダイレクトにラジオで全国のリスナーに紹介していました。

佐野 当然、同じ年格好のリスナーたちはそのバンドの演奏やソングライターたちの音楽に敏感に反応して、「あのレコードよかったです」「あのバンド、他に曲ないんですか」といったフィードバッグが相次いだんです。ひとつには時代の変わり目だった。メジャー・カンパニーが契約しているアーティスト以外にも、もっともっと聞き手に近いシンガーやバンドが街にはたくさんいるんだということを、あのコーナーは示したんじゃないかと思ってるんです。

宮沢 月曜日、佐野さんが担当している日は「これから」という音が聴ける日だったんです。僕らにとってラジオの役割のひとつにこういうのがあるんだなと勉強になったし、僕らの番組でもやってるつもりなんです。ラジオでできるひとつの力ですよね。

恒例のゲスト・コーナー。「10代でガツーンときた音楽」に佐野さんが選曲したのはニール・ヤングの「TELL ME WHY」。

佐野 うまい下手というより一種独特のボーカル・パフォーマー、明らかにフランク・シナトラとは違いますよね。上手に歌おうというのではなく、表現の領域の歌い方。そこに強く惹かれた。僕がロック的なものを感じたのはそれが初めてだった。しかもラジオから。10歳、11歳の頃。どんな格好をしているのか、どんな顔の人だとかはわからなかったけれど、DJは「ボブ・ディラン」や、「ニール・ヤング」と言ってる。そこから僕のロックンロール音楽への興味が始まったわけです。

音楽をはじめたきっかけについては、このように語っていました。

佐野 50年代の欧米のポップ音楽、ジャズ音楽を物心付く頃からレコードを楽しんでいた。そのうち海外のロック音楽を聴くようになり、楽器を手にし、自分で曲を書いてみたいと思って、10代のはじめに書き始めた。どういうふうに曲を書いたらいいのかわからなくて、初めはいろんな詩人の詩に勝手にメロディーを付けて、曲らしきものを書き始めた。
実際、僕がソング・ライティングをする前にも優れた曲の書き手たちは日本にもたくさんいた。はっぴいえんどであったり、フォーク・シンガーと呼ばれていた高田渡さん、加川良さん、友部正人さんといった世代。そのあとに岡林信康さん、吉田拓郎さんといった若手たちが続いたんだと思うんですけど、そういった人たちが日本語で面白い曲を書いていた。ただ、曲というのは世相や、そのソングライターが属している世代観というのがふっと出てきてしまいますから、(彼らは)言ってみれば僕よりもひとつふたつお兄さんの人たちなので、言ってる内容がちょっと古いかなと。僕の世代であればこういうことを歌うのにな、というような。そこで彼らを先生と見立てて、あるいは時に反面教師と見立てて曲を書き始めました。

ふたりのトークはこのあと、1984年にリリースされたアルバム『VISITORS』について移っていきました。ニューヨークで録音されたこのアルバムの背景についてはこちらをご覧ください。1983年4月、日本での状況を捨てて(3枚目のアルバム『SOMEDAY』が大ヒットしていた)、佐野さんは単身ニューヨークに移住します。ニューヨークからも続けていたラジオ、そして佐野さんが編集した雑誌『THIS』で、僕らは佐野さんのニューヨークでの生活、ニューヨークのシーンを知ることになります。そしてこの渡米から約1年後の1984年5月、現地のミュージシャンとレコーディングしたアルバム『VISITORS』が発表されます。

佐野さんは渡米前の状況をこのように語っていました。

佐野 日本全国、僕はバンドと一緒に演奏してまわっていた。どこの会場でも新しい時代の、新しいキッズたちがわいわいがやがや僕たちの応援をしてくれていた。その熱意、エネルギーというのはものすごく熱くて、強いものだった。明らかにそのジェネレーションは旧来の、今までの音楽には満足してなかった。レコードはそこそこにしか売れてないけど、こんなにたくさんのニュー・キッズたちが僕らのライヴに集まってくれるんだったら、僕がやってることはそう間違いではないだろう。もっと新しいこと、もっと新しい要素の音楽を彼らにプレゼントしたい。それは東京にいては得られない。前から行きたかったニューヨークで、ニューヨークのミュージシャンたちと創り上げたニュー・サウンドを彼らに届けたい。そういう気持ちでデビュー3年目にしてニューヨークに移住したんです。

佐野 僕にとってもっとスリルのあること、もっともっと冒険を、そして何かもっと新しいものという気持ちが強く働いていた頃だった。自分がアルバム『SOMEDAY』で成功したとか、そういう気持ちはまったくなかった。

宮沢 ニューヨークに住む期間は決めてなかったんですか?
佐野 決めてなかったですね。僕はもうずっと向こうに住んでしまうものだと思っていましたから。しかし1983年というのはアメリカの音楽界においてもひとつのレボリューションがあった。それはMTVがスタートしたことであったり、それからヒップホップ音楽がストリート・レベルからコマーシャル・レベルに炸裂しようとしていた頃で、街路にエネルギーがあった時代。幸運にもよく知らないまま、そうした熱気の中に飛び込んでしまったわけだけど、音楽とビジュアルの新しい関係であるとか、スポークン・ワーズ、詩の音楽のことだとか、それから新しいヒップホップという要素とかを、僕は日本人だから日本の文化とニューヨークのそこで起こっている新しい文化をミクスチャーして、新しいものを僕のファンに持って帰らなければいけない、持って帰りたいという気持ちが強くなった。

佐野さんがニューヨークで創り上げ、日本に持ち帰ったアルバム『VISITORS』を聴いたときの僕ら(宮沢和史や極東ラジオ・スタッフ)の衝撃は当時、大変なものでした。それはまったく新しい音楽であり、また、このアルバムはニューヨークという遙か遠くの街のシーンをジャーナリスティックに切り取って見せてくれるものでした。

宮沢 『サウンド・ストリート』で、佐野さんがニューヨークにとにかくひとりで行って、向こうでミュージシャンを集めて、アルバムを作ってくるんだということを聞いて、僕はすごく驚いたんです。田舎に住んでた子供の自分にはすごく衝撃的なことで、それ以前、そんな話を聞いたことなかったし。僕も自分の話をして恐縮なんですが、自分がプロになってからも佐野さんの『VISITORS』がずーっとどこか頭の中にあって。坂本龍一さんの活動も、矢野顕子さんの活動もそうですけど、ひとりで飛び込んで行って、何かを掴んで、感動したり、興奮したものを自分のファンにそのまま同じように伝えたい。同じ衝撃を受けてほしい、そういうフィルターに自分がなりたいという気持ちは、佐野さんのニューヨークでの体験が僕の遺伝子の中にあるからなんです。今、お話を聞いていて、まったく同じことを僕も思っているんです。
佐野 なるほど。それは素晴らしいことだよね。
宮沢 僕は、佐野さんや坂本さんたちができなかったことをやってやろうというのが、自分の物差しとしてあって、やれてるかどうかは別として、そういうチャレンジをしていくのは、このアルバムが自分にとって衝撃だったからです。

宮沢がこのアルバムから番組で選んだのはオープニング・ナンバーの「コンプリケイション・シェイクダウン 」。

宮沢 僕はこの曲を聴いて本当にぶったまげました。何だかわからないんだけど、わくわくしたんです。

佐野 あー、それは嬉しいね。

宮沢 ロックという概念が僕の中でひとつできたなと。このスタンスというか、攻撃姿勢、時代を包み込む感じ、いろんなものを含めたアティテュードがロックなんだと知りました。

ニューヨークにひとりで飛び込み、この素晴らしいアルバムを創り上げた佐野さん。1997年、ロンドンに、そしてブラジルに、やはり単身で飛び込み『Sixteenth Moon』、『AFROSICK』というアルバムを創り上げた宮沢和史。宮沢が佐野さんから受けた影響というのが、この日のトークでわかっていただけたでしょうか。


■ 2003年12月6日放送 第349回


1曲目の「自転車でおいで」は矢野顕子さんと佐野元春さんのデュエット。矢野さんのアルバム『GRANOLA』(1987年)に収録。1992年には佐野元春のシングル「また明日」で矢野さんがデュエットで参加しています。また、矢野さんの『SUPER FOLK SONG』では佐野さんの「SOMEDAY」を取り上げています。

先週に引き続き1980年代の話から。

宮沢 実際『VISITORS』をニューヨークで録音するにあたって楽しかった点、ご苦労された点はどういうところですか?
佐野 楽しかった点の方が多いかな。違う文化の者同士が集まって、ああでもないこうでもないとひとつのものを作っていくわけですから、そこに衝突があったり予期しないような融合があったり、ものを作るにあたっていろんな価値観、いろいろな考えを持った人たちが集まれば集まるほど、そこに起爆的なエネルギーがたまるわけだよね。そうしたことを知ることができたのがすごくよかったなと思ってます。その後に僕は今度はイギリスに長く滞在してアルバム(『ナポレオン・フィッシュと泳ぐ日』)を作ることになるんだけど、そのように東京から離れて、違う文化のところに飛び込んで行って、行く先々の人たちとぶつかったり融合したりしながら音楽を作って行ったというのが、思い返せば僕の80年代でしたね。

次はポエトリー・リーディング、スポークン・ワーズについての話題。宮沢和史もコンサート・ツアーの合間に朗読会を何度も開き、その模様を収めた『未完の夜』というDVDをリリースしています。佐野元春さんも1985年にポエトリー・リーディングのカセットブック『エレクトリック・ガーデン』をリリース。今年11月に鎌倉で開いたスポークン・ワーズのライブ「In motion 2003 増幅」など、両者とも音楽以外にポエトリー・リーディング、スポークン・ワーズを模索し、実践しています。

宮沢 佐野さんが音楽家としてポエトリー・リーディングを始めたきっかけは何だったんですか?
佐野 もともとミュージシャンに限らず1940年代、50年代のペーパーバックライター、小説家たちは自分の本を売るときに、その本の一節を自分の声で朗読したものをプロモーションで、ラジオで流したりと、そういうことが日常的に欧米ではあった。やはり自分が書いた文章ですから自分が朗読するのがいちばん説得力があるに決まってるんですよね。そうしたところから発展して、詩を書いている人間が活字だけにとどまらず、自分の書いた詩を自分で喋ってそれをレコード化していったという文化が50年代からずっとある。その延長線上で、例えば僕の好きな50年代の作家、ジャック・ケルアックとか、あるいはその後のアレン・ギンズバーグとかゴレゴリー・コルソとかのビート・ジェネレーションの人たちが、より当時のポップ音楽や当時のジャズ音楽と接近して、そうした音楽を背景に自分の詩を読み始めた。それがロックやポップやジャズを聴いていたユースたちに受けたという経緯があるんだよね。だからユースたちから見れば、たぶんメロディが付いているか付いてないかぐらいの差でしかなく、ポエトリー・リーディングなのかあるいは自分のお気に入りのポップ音楽なのか、特にあまり違いを見ることなく楽しんでいたんじゃないかと思うんですよね。ただ、日本の状況を見てみると、詩というものが学校の教育のせいもあったんだけど、ものすごアカデミックなもの、何か病気がちな、青白い詩人が血ヘドを吐きながら詩を書いて、それを苦しげにこちらの方も読まなければいけない。
宮沢 (笑)。
佐野 そうした間違った詩の教育とか間違った詩の楽しみ方というものに僕は子供の頃に気が付いて、それで自分なりの詩に対する考えを実践したいという気持ちがあった。もともと詩はオーラルなものとして伝えられるべきだ、インディアンがそうやっているように。そういう気持ちがありましたから。『エレクトリック・ガーデン』という85年に出したカセットブックでそれをやってみたんですが、これが意外に受けた。
宮沢 詩人の谷川俊太郎さんは、逆に現代詩の世界から音楽との接点みたいなものを探していらっしゃって、面白いですよね。
佐野 そうですね。谷川さんをはじめとして、諏訪優さん、白石かずこさんといった一派の方たちはやはりビート・ジェネレーションの洗礼を受けていますから、ご自身の詩を当時ライブハウスなどでリーディングしたり、ジャズバンドをバックにリーディングしたりということをよくやっていた。僕も偶然、子供の頃にそれを観てるんだよね。東京の渋谷の教会のすぐ隣りにジャンジャンというライブハウスがあって、よくそういう催しをしていた。僕ははっぴぃえんどを観に行くんだけど、その前座で詩人がリーディングしていたりするんで偶然に観ちゃったりするんだよね。そうした見学があって、僕はもっと大きくなったらもうちょっとクールな表現をするのになということを感じていた。その見学が80年代に入ってからの『エレクトリック・ガーデン』なんですけどね。

現在は、2004年3月にリリース予定のニューアルバムのレコーディング中という佐野さん。「君の魂 大事な魂」は12月17日リリースの、アルバムからの先行シングルです。


佐野さんとお別れしたあと、極東ラジオにとって重要なお知らせがありました。極東ラジオは2003年12月最終週で終了します。番組内での宮沢和史の発言を以下に紹介します。

宮沢 1997年4月からこれまで続けてきた極東ラジオを12月いっぱいで終了することにしました。この辺で一回、区切りをつけます。僕らがお手本にしてきた『サウンド・ストリート』というラジオ番組をやっていた佐野元春さんにも先週、今週と番組に来て頂いて、手前味噌だけど佐野さんたちがやろうとしてきたことを僕らがこの番組で継承してきたというプライドも自信もあります。今の世の中、週刊誌みたいに音楽は出ては消えていきますが、普段なかなかラジオでかからない音楽でも「いいものはいいんだ」ってことを僕らの番組のテーマにして、これまで放送してきました。極東ラジオは僕が得たもの、スタッフ達が吸収してきたものをリスナーのみなさんに聴いて欲しくて、この6年間、どんどん紹介してきました。でも、僕自身、もっと音楽を吸収したい、それは番組を続けながらではしんどいという気持ちもしてきて、ここで一度、ストップして、僕のライフ・スタイルも少し変えて、新しく音楽との関わり方を模索します。なので、極東ラジオは今年いっぱいで終了させてもらいます。でも、僕らがこれまで得たものの素晴らしさ、紹介してきたことのプライドは忘れたくないし、またいつかどこかで、どういう形になるか分かりませんが、ラジオで喋ってみたいという思いはあります。今まで聴いてくださった方には本当に感謝しています。12月いっぱいなので、まだ数週間ありますが、最後まで濃密な、極東ラジオらしい番組を作っていきたいと思います。ぜひ、楽しみにしていてください。

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