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MIYAZAWA-SICK スペイン 2002 (極東ラジオ アーカイヴ)


2002年7月、「牛追い祭り」で有名なスペイン・パンプローナ市のフェスティバルに出演した宮沢和史。7月27日、MIYAZAWA-SICKのメンバーでライヴを行なってきました。極東ラジオ2002年8月10日の放送で、このライヴとそのあと訪れたポルトガル・リスボンの話をしています。

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写真は宮沢和史スペイン語サイトから。

宮沢 日本祭りのイベントなんです。会場に鯉のぼりがあったり、働いてる人が浴衣着てたり。着崩れてましてね(笑)。それが妙によくて。「もっと着崩すんだよ」って(メンバーのひとりが)ウソの情報を言ってましたが(笑)。パンプローナの人たちに日本のことを知ってもらうというイベントだったんです。パンプローナは山口県のどこかの町と姉妹都市だったのかな。うれしかったね。日本の一人として遠い町で、日本をこれだけ紹介してくれて。うれしかったし、誇らしかったですね。
会場には鯉のぼりや提灯が飾ってあるんですが、そういうのも僕らの大事な伝統ではありますが、今、東京では見かけないじゃないですか。もっと東京は混沌としてるし、そういうところを知ってほしいな、と思ったんです。僕らのステージでは。他の時間は和太鼓とか、これぞ日本というのものを紹介しておりましたので。我々はもう少し、今の東京はこんなんだよというライヴにしようと、かなり攻めの曲を選んでみました。

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宮沢 ライヴをやってみて、スペイン語でやりたいなあという想いが出てきました。ポルトガル語、英語、日本語、ウチナーグチが僕のソロでの言葉ですけど、ここにスペイン語がないとまずいなあと思いました。この前のアルゼンチンもそうですが、スペイン語圏って本当に広いです。ポルトガル語圏というのはブラジルとアフリカの一部とポルトガルしかないですから。アメリカだってマイアミの方に行けば英語よりスペイン語のほうが通じるし、南米はほとんどそうです。カリブもそうだし。今までの曲をスペイン語で歌い直したり、新たにスペイン語のための曲を書こうかなと、そういう想いも生まれたライヴでした。

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宮沢 ライヴは非常に盛り上がりました。「島唄」とか「沖縄に降る雪」の反応が特によかったです。僕らのメンバーはけっこういろんな国でライヴをやっていて、特にドラムのゲンタくんは元オルケスタ・デ・ラルスのメンバーですから、外国でのライヴには慣れていて、そういう意味ではうちのメンバーはタフですね。どこに行ってもやれるなという気がしました。でも去年から今年はソロでヨーロッパをまわるぞと思っていたのにスペイン1本になってしまったので、ちょっと消化不良のところも正直あるんですよ。半年ぶりだったからね。もうちょっと何本かやってると外国での見せ方もわかってくるし、今度のメンバーで外国でやるのは初めてでしたから。『MIYAZAWA』も(ブラジルに続き)ヨーロッパでリリースされましたし、今度はいろんなイベントも出やすいですし、そしてライヴの中でスペイン語の曲を入れていきたいと思いました。

宮沢 MCでお客さんとコミュニケーションを図りたいんですが、スペイン語ができないですから。「こんにちは、はじめまして、宮沢です」「さよなら」。それだけですから、しゃべれるのは(笑)。その間が何もないですから(笑)。だから英語でMCをするしかなくて、でも途中、キューバ出身のメンバー、ルイスが「ちむぐり唄者」のイントロで「みなさん、座ってないで前に出てきてもいいからどんどん踊ろうよ」と言ってくれて、それからバーッとみんな前に出て踊ってましたね。
ルイスには今回ホントにお世話になって。街を歩くにしてもみんなルイスにくっついていって、ルイスはへとへとになっておりました(笑)。

パンプローナでのライヴが終わったあと、ポルトガルの首都リスボンに飛んで、2日間の休暇を楽しんだMIYA。後半はその話です。

宮沢 ポルトガルのファドが好きで、とにかく聴きたくて、リスボンの「セニョール・ビーノ」という、「ラティーナ」の本田編集長がお勧めの店でファドを聴いてきました。ファドって、演奏が始まると顔が見えなくなるくらい店内を暗くするんですね。男性2人、女性2人、計4人のファド・シンガーを観ました。それぞれ個性が違って本当に堪能しました。(M-3の)PATRICIA RODRIGUESはその中の一人です。
ファドを聴いて、あらためてポルトガル語は気持ちいい言葉だなあと思いました。言葉と音楽というのは切っても切り離せないし、この言葉と音楽が密接に結びついて、こういうメロディと演奏の方法が生まれたんだなあと思いました。
音楽っていうのはやっぱり現地で聴きたいね。これは僕のポリシーでもあるんです。東京にいれば、ファドの人だって来るだろうし、フラメンコだって観られるだろうし、世界中のCDも買えますが、「何でこの音楽が生まれたんだろう」ということが僕はいちばん知りたいんです。人々の生活も見たいし、旧市街に行ってみたいし。タンゴもブエノスアイレスのボカという港町で生まれたんですが、そこにこの春行ってみて、なるほどこういうところから生まれたのかと思いました。人々の情けとか想いとか怨念とか、人間くさい部分があって、そこからポッと咲いた花がタンゴだったりファドだったりするんですよね。

宮沢 本当にファドという音楽は深いね。で、ブラジル音楽は新しい音楽だということにも気付きました。昔、カルリーニョス・ブラウンが僕に言った言葉でびっくりしたことがあったんです。「ブラジルはまだできたばかりの国だから、音楽はまだまだこれから完成するんだ」って。僕らからしたらサンバだって歴史ある気がするし、でもたかだか数十年、100年くらいの話なんですよね。ブラジルはどんどん変化していく。ポルトガルという国ははるか昔、中世に出来上がった国で成熟を続けている。そういう深みを感じたね。歴史の重みとか。僕は今までスペインやポルトガルやオランダが「到着」した国ばかりまわってきましたから、その大もとにたどり着いたという感慨は大きかったですね。スペインに僕はそれほど思い入れがあったわけじゃないけど、ここから航海に出て行ったんだと思うと……。
ポルトガルには、何でこんなに装飾を付けるんだろう、造るの大変なのにというような大きな灯台があるんです。そこからみんな船出して行ったんです、大航海時代に。アフリカの希望峰をまわって、インドネシアやブラジルに行ったわけです。そこからポルトガルに戻ってきて、その灯台がはるか彼方に見えると号泣するんだって。「やっと帰ってきたぞ」って。そのためにはいい建築物であるべきだし、ただ光ってればいいわけじゃない。みんなこの灯台を目指して帰ってくるんだから。そういう話を聴くと鳥肌立つし、やっぱり人間ってすごいなあと思います。大航海時代の功罪って僕もこのラジオで言ってるし、いい部分もあれば悪い部分もあると感じますが、この灯台の前に立つと、人間が求めたロマンを感じて、人間って大きなことを考えるなあと感動しました。


同年、宮沢はNHKのドキュメンタリー番組でポルトガル発祥の楽器、音楽が世界に拡がっていった旅路を追いました。「ブラジルのカヴァキーニョ、インドネシアのクロンチョン、そしてハワイアン。大航海時代のポルトガルをルーツにもつそれらの音楽が辿ってきた道を、宮沢和史が長期海外ロケを行ない、探ります」

このインタビューでもパンプローナ公演を語っています。

そして2003年2月に小泉今日子に書いたファドの曲「ピアノ」をレコーディングにリスボンへ。

同2003年7月にはMIYAZAWA-SICKでポルトガル・リスボン公演を含むヨーロッパ三都市ツアーを行なっています。


MIYAZAWA-SICKのバンドメンバーである、高野寛さんもこのスペイン・パンプローナでのライヴを詳細に記述しています(上記、noteで)。


[おまけ]スペインの新聞記事を、極東ラジオスタッフのフーコが訳しましたので、それを追加で掲載します。ライヴレポートです。


パンプローナの人々はMIYAZAWAと彼のバンドのライヴを興奮でもって迎え入れた
 歌手であり作曲家である宮沢和史が日本での大物っぷりを実演してみせた。Festivales de Navarraは、この宮沢和史のコンサートでパンプローナの人々に対して日本の一番前衛的な部分を見せようとした。宮沢はMIYAZAWA-SICKというバンドと共に自身の名前の付いた三枚目のアルバム、『MIYAZAWA』の曲を演奏した。(THE BOOMのリーダーとして活動しながら、彼は他に二枚のソロアルバムも出している)。
 会場の席を三分の二くらい埋めた観客は、オープニングの、歌うというより語りの方が多いが不思議で心地よいメロディーが奏でられた曲(「ゲバラとエビータのためのタンゴ」)を聴くまで、どんなことが起こるのか全く分からずにいた。宮沢は日本語の語りが終わると、読んでいた文書を放り投げ、座っていた椅子から立ち上がった。会場には興奮の拍手が起こった。
 一人のアーティストと一つのバンドが観客の懐にあっと言う間に入り込む大きなスタート。トランペットで参加したキューバ人のLuis Valleは照明の中よく目立っていた。「ポップスのコンサート」と紹介されていたが、ジャズやブルース、ラテンミュージック、沖縄伝統音楽の混合であるように見えた(沖縄とは美しくて特別な文化を持つ日本の島)。
 宮沢は少なくとも二回は三線(蛇の皮で出来た反響させる箱に三弦が張られている島の楽器)を使った。一回はTHE BOOMの「島唄」を歌った時である。この「島唄」が観客には人気があった。1993年に発売されたこの曲は150万枚のセールスを記録し、中国、台湾、ジャマイカ、イギリスの歌手にもカヴァーされ、アルゼンチンではアルフレッド・カセーロがカヴァーした。
 ライヴが終わると(アンコールの前)観客はライヴの終わりを諦められないようで、まるで大災害のようになった。ミュージシャンがステージに戻ってくると、すでに自分の席にはついていない観客達が本当の最後の曲に踊りまくった。宮沢がその日ねらっていたように。「今日は踊れるコンサートになるよ」。


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