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メキシコ ・ ペルー ・ ボリビアへの旅(2003年)

◎ メキシコ到着 2003-02-16

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僕には2週間の休暇と、メキシコまでの往復チケットがありました。
チケットはマイレージで入手。所持金は8万円と、トラベラーズチェックが320ドル分。
メキシコまでは行く。帰りはサンフランシスコから。それ以外の旅の行程は決めていませんでした。もちろん候補はあります。南米ペルーのリマとクスコへ、1989年以来の再訪。でも、あくまでもチケットは中米メキシコまで。前途多難(それはイヤだ)、ではなく、前途未定な旅。大雪のために、一時間遅れて成田を離陸。


機内では、「地球の歩き方 メキシコ」のほとんどのページに目を通しました。村上春樹が以前旅行記に書いていたメキシコ国内のサンクリストバル・デ・ラスカサスが、急遽、候補地にあがる。そこに行くならほぼ一日おきに移動となります。移動、嫌い。それよりかは南米ボリビアの首都ラパス往復のチケットを買って、サンタクルスに行こうか。迷う。たった2週間しかない旅なのに、太平洋上で、こんなことを悩んでいるのは僕だけだっただろう。この日のメモにあった言葉。「とにかく明日、航空券を買う。明後日から動く。時間は有効に使わねば」。
どうだか。そう思うなら旅立つ前に予定を組んでおけばいいのに。


同日11時30分、サンフランシスコ空港に到着。空港内のメキシカンレストランでチキン・タコ2.9ドル、チップス&サルサ2.1ドル、アイスティー1.9ドル。僕は旅行中、すべての食事代を記録してる。
ここで、メキシコシティー行きの飛行機に乗り換え。
機内ではずっと寝ていた。機内食も食べず。日本人は僕だけ。グアダラハラのミゲル・イダルゴ国際空港で降りてメキシコへの入国審査を済ませ、もう一度同じ飛行機に乗る。長旅だ。
20時過ぎ。メキシコシティー着。空から見下ろす夜景はオレンジ色の灯りの洪水のようだった。大都会。70ドルを空港で両替(1ドル=10.9ペソ)。空港タクシーは130ペソ。時速80キロから100キロで走る。車間距離が短い。
今回、自分の旅ではじめてホテル(正確にはホステル)を予約した。インターネットで日本から。異国に夜に着いても、重い荷物を背負って安宿街をうろつくこともなく、タクシーで直行! なんたる便利さ。
住宅街の、外観からはそこがホステルだとはわからないビルの前にタクシーは停まった。インターフォンを使い、予約していることを英語で告げて、ドアを開けてもらう。あ、これは安全だと感心する。受付は女性。ロビー、というよりリビングといったスペースで、フェルナンドというハワイから来た旅人にピザを一切れもらう。これから半年、世界を旅するそうだ。
フレンドリーでいい宿。写真は僕が泊まった部屋。インターネットは30分で10ペソ。


◎ ティオティワカン 2003-02-17

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5時頃目が覚め、機内でもらったパンを食べ、そのままベッドの中でガイドブックを読む。メキシコの朝夕は意外と寒い。やっぱりメキシコで行きたいところは、サンクリストバル・デ・ラスカサス、それとプエブロかな。
7時30分、行動開始。街角のタコス屋台で卵のタコス。すごく美味かった。たぶん5ペソぐらい。水が4.9ペソ。
宿に戻り、リビングで、日本人学生2人に会い、話す。ロスに住んでいて、3泊4日のメキシコ旅行だそうだ。フレッシュ! 
2泊分の宿代440ペソを払う。そういえば昨晩は前金も何もなしだった。今日はレシートもなし。日系の旅行代理店、ミカドトラベル方面へ向かう。途中、独立記念塔の近くにスターバックスがあったので、カフェラテ小、26ペソ。高い! スタバ特製のメキシコシティー・マグカップは95ペソもした。
午前中いっぱいをかけて、ミカドトラベルでいろいろ便をチェックしてもらい、結局、メキシコシティーとボリビアのサンタクルス往復を671.8ドルで購入。ボリビアーノ航空臨時便。あっという間に行き先が決まる。明日出発で、メキシコに再び戻ってくるのは一週間後。これはこれでボリビア・サンタクルスで時間がありすぎるが……。
セビージャ駅の近くで昼食に屋台のタコス。鶏肉のタコスと、ビーフとジャガイモのタコスふたつで12ペソぐらい。美味い! そこから地下鉄に乗り継ぐが、2回乗り間違いをする。ひどい方向音痴。


ティオティワカンのピラミッド。月のピラミッドの下。直射日光が強い! 昔ペルーで買ったトレーナーを頭にかぶって歩く。
市内からここまで、バスで来た。現金がなかったので、バスターミナル横の銀行で100ドルTCを両替した。バス料金は21ペソ。14時発で15時前には着いた。バスから見る郊外はスラム。途中でギターを持った男の子と女の子が車内に乗り込み2曲歌う。ティオティワカン遺跡への入場料は37ペソ。暑くてとてもピラミッドの頂上まで登れなかった(ティオティワカンは2005年にMIYAZAWA-SICKのツアーで再訪。tatsuさんと高野寛さんにインタビューした際の写真は僕がプラミッドの頂上で撮影した)。ずっとボリビアの旅程を考えていたので、遺跡への感慨も生まれなかった。明日、もういちどミカドトラベルに行って、他の日程がないか確認しよう、たぶんムリだと思うけど。ああ、いったい僕は何をやってるのだ、と。


遺跡から市内に向かう帰りのバスの中では熟睡。気づいたら到着していたが、行きに乗ったバス停とは違う場所で下ろされた。地下鉄でセビージャへ。また屋台でタコスをふたつ。今度は合計10ペソ。美味すぎる!
宿に戻って部屋でぐだぐだする。洗濯を頼む。35ペソ。インターネット10ペソ。日本から仕事のメール。洗濯ができるまで部屋で待とうと思っていたけど待ちきれず、21時頃、文庫本と100ペソだけ持って夜の散歩にでかける。しかし、結局またタコス。3つで15ペソ。1日4食タコスだった。とにかくタコスが美味い(それ以外のものを食べてない!)。
映画館横のネットカフェでカフェ・コン・レチェ(カフェオレ)とインターネット利用で35ペソ。
下は、2005年にメキシコシティーで撮影したタコス屋台。参考までに。

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◎ ソカロ 2003-02-18

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時差ぼけなのか明日からのボリビア旅行への緊張なのか、夜中に何度も目が覚めた。朝、散策。卵のタコスで6ペソ。カフェでエスプレッソで10ペソ。宿に戻って、リビングで韓国人の女の子とシカゴから来たアメリカ人男とコーヒーを飲む。9時頃、荷物を預けてチェックアウト。ソナロッソまで歩く。昨夜のネットカフェ横のファミレスで、カフェ・コン・レチェを飲みながら、まだ旅程を悩む。
ミカドトラベル。結局、変更できず。理由は土曜出発は満席。僕はアホだ。ネガティヴ思考。自分でいったん決めたんだからボリビア旅行を楽しんでくればいいのに。
インターネットカフェ15ペソ。またセビージャ近くのタコスやでビーフとポテト、6.5ペソ。
地下鉄でソカロへ移動。カテドラルの荘厳さに驚き、宮殿の壁画に感動する。
ソカロ近くの屋台の群れ(日用品中心、楽しい)を見たあと、地下鉄でバルデロスへ。車内で僕は迷子になってると思われたらしい。乗客に「次の駅だ」と教えてもらう。こういう親切はうれしい。
バルデラスの駅を出ると、学生向けの屋台といった感じでCDや古本などが並んでいる。僕はまた目に付いたタコス屋に入る。今度は座って食べられる食堂。スプライト10ペソ、チキンのタコスふたつで、チップ込みで50ペソ。美味しかった。
セビージャの駅に戻り、宿で荷物を受け取る。何か疲れてる。空港まで地下鉄での移動がしんどく思えたので、タクシーを呼んでもらう。電話代が4ペソ。タクシー代が95ペソ(チップ込みで100ペソ)。いい宿だった。最後にインターネット10ペソ。
空港に着いてもどうも身体が疲れている。座り込んで眠り込みそうになる。水10ペソ。タコベルに入って、ファストフードのタコにトライ。ワカモレは脂っこくて半分も食べられなかった。それなのに30ペソ!
ボリビアーノ空港のチェックイン担当スタッフは飯島愛にそっくりだった! 出発ゲートはかなり近代的。しかし、僕のボーディングパスには僕の名前が「FUJIYAMA」と記載されていた……。富士山……。大丈夫なのか。やはりこの名前では搭乗できず、チェックインやり直し……。


◎ オキナワ 2003-02-19

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早朝5時30分。到着したサンタクルスの空港はまさに田舎。初めてのボリビアなのに、そこにはREOスピードワゴンや、「プリティウーマン」など80年代のアメリカンポップスが流れていた。預けたリュックのサイドポケットの目覚まし時計が壊れていた。そんなところに入れておいた僕が悪い。しかしフィルム2本がなくなっていたのは誰のせい?
ボリビアに入国したものの、空港の両替所が早朝で開いてないため(国際便が到着するんだから開けていてほしい……)、インフォメーションでお願いして10ドルだけ両替してもらい、空港内のカフェでエスプレッソ9Bとパン6Bを注文。メニューに「Ranu」と書いてあったそのパンの正体は、トマト、ハム、チーズを挟んだトーストだった。空港に残ったのは僕だけ。
6時30分、30ドルを両替(1ドル=7.48B)。さあ、ボリビアを楽しもう!


「地球の歩き方」によると、このサンタクルスは1651年、パラグアイから植民したスペイン人により建設されたそうだ。ボリビアの首都ラパスからサンタクルスへは飛行機で1時間。ただしバスでは20〜23時間かかる。そんな地理的要因から最近までは「交通が不便であり、孤立都市のイメージが強かった」とある。そして、僕がここに来たかった理由も書いてある。「第二次大戦前後のゴム景気にあおられ、数多くの日本人が夢を託して南米にやってきた。ここボリビアにも数多くの移民が流れ込み、彼らはアンデス山脈を越え、少しでも過ごしやすい気候のサンタクルス近郊に移り住み、サンファンやコロニア・オキナワを拓いた」。


ガイドブックで見当を付けたHOTEL COLONIALまでタクシーで8ドル。30分ほど寝て、シャワーを浴び、バスルームで洗濯をして、行動開始。ホテルのスタッフ(近所のおばさんのような親近感!)に市内の地図をもらい、朝食もいただく。20ドルの宿。ちょっと湿った感じで暗いけど、問題はない。
地図を見ながら、おばさんに「オキナワ」への行き方を訊いていたら、そのまますぐに行きたくなってしまった。行くのだ!


ホテルを出て、プラサ24の近くのネットカフェで情報収集(特になし)。コレクティーボ(乗り合いタクシー)でモンテーロへ約1時間のドライブ。そこで乗り換え、「オキナワ」までさらに1時間。このあたりで僕はハイテンションになっていた。日本からこれだけ遠く離れた日系移民の居住地「オキナワ」で、どんな話が聞けるのかワクワクしてくる。(※この「オキナワ」、そして翌日の「サンファン」訪問については後日、別なところに記事を書いた……手元にない)。コレクティーボは6B+6B。安い! 「オキナワ」で食べたのは、Pollo Con Arrozで5B。これも安い! 他にフィルムと水(10B)を購入。
夕方、サンタクルス市内に戻り、日系の旅行代理店「島ツアーズ」を訪問。サンタクルスからペルーのクスコに飛ぶ便がないか、思いついたので質問してみる。クスコへの往復は250ドルするそうだ。火曜土曜のみ。もう一軒、「チョービ観光」という店でも相談。その後、「スーパー・オキナワ」(こんな店名のスーパーが南米のサンタクルス市にはあるのです)でジュース6B。
ホテルに戻り少し休憩して、夕飯は「島ツアーズ」で教えてもらった「KENの店」という日系の食堂へ。焼き肉定食と生ビール。店には旅行者用ノートが置いてあった。こういう旅人向けノートというのはインターネット時代の今でもあるんだなあと感慨深い。


◎ サンファン 2003-02-20

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日系移民の移住地「サンファン」のレストラン、「ODA UTOPIA」でちゃんぽんとご飯を食べました。今は食後の休憩中、雨宿りしながら日記を書いています。通り雨だといいけど。傘、こういうときに持ってないなんて……。
サンタクルス市内からサンファンまでは、まずサンタフェ行きのコレクティーボ(乗り合いタクシー/18B)に乗る。10時30分発車。僕は後部の運転席の後ろ。隣はインディヘナの女性ふたり、前部座席にはアベック。でもそのアベックの男の方はずっと携帯電話をかけていた。約2時間でサンタフェ到着。ここで乗り換えの車を待っていたけど来ないので、さっきのコレクティーボをタクシー代わりにひとりで利用して(15B)、サンファンまで。
「オキナワ」と同じような感じ。日系移住地だからといって、例えばサンフランシスコのJAPAN TOWNみたいに何か日本人向けの大々的な施設があるかということではない。
日系人がやってるらしい小さなお店に入って、「こんにちは」と声をかけると、たぶん70歳過ぎだろう、おばあさんが出てきた。高知出身だという。日本食が食べられる店を訊いたところ(3軒あるそうだ)、「ODA UTOPIA」を紹介してくれた。
大きなお店。店内には村山首相、細川首相の書が飾ってあった。お勧めという長崎ちゃんぽん(小)とご飯を注文。サンファンは九州、それも長崎出身の方が多いそうだ。ちゃんぽんは東京で食べたものより美味しかった。おじさんには、スペイン語で胡椒をかけて食べるように言われた。50人ぐらいは入れる広さがある。きっとお祝いごととかいろんな式もやるんだろうな。


UTOPIAを出て再びさっきのおばあさんの店に。こちらでも雨宿りをしながらお話を聞かせてもらう。40年前に移民したとのこと。2ヶ月にわたる船の旅は船酔いが苦しくて苦しくて、もう二度と日本に帰るものかと思ったそうだ。南米の最初の寄港地、ブラジルからの鉄道の旅は、おもしろかった。40年前、このサンファンは原生林だった、と。
原生林を焼き払って開墾していた時代、原野に一本だけ残っていた大木に、炎が大蛇のように螺旋状に絡みついて、天に昇っていった話……。おばあさんはこれを「たたりを見た」と言って話してくれた。
そこまで聞いたところで、もうひとり、おばあさんがお店に入ってきた。幼くして死んでしまった孫の話を聞く。便が白く、肝臓が悪かったらしい。日本の医者に診せれば助かったかもしれないと。いま、ボリビアはいちばんよくない季節(=雨期)で、虫が出て、暑いという。

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午後の開館時間(14時30分)になったので、日本ボリビア協会の建物に行く。受付の若い女の子が資料館の鍵を渡してくれた。そこで自由に見てきてくれとのこと。資料館には旅行者ノートが置いてあったけど、サンファンまで来る人はあまりいないようだった。再び雨が降り出す。確かに虫が多い、ちょっとの間に蚊にさされる。資料館はなぜか電気がつかず、暑く、蚊もいたので、短縮モードで急いで閲覧した。ハワイのマウイ島で見た日系移民資料館と似たような感じ。日本からとても遠く離れたボリビアまで来て開墾した人たちのことに思いを馳せる。
資料館から本館まで雨の降る庭を駆け足で戻って、「雨宿りをさせてください」と女の子に頼む。応接室のようなスペースで、「コロニア・オキナワ40周年史」という本を見つけたのでソファに座って読んでいると、70歳ぐらいの男性が話しかけてきてくれた。この日本ボリビア協会の会長、本田さんだった。本田さんは僕が移民に興味を持ってることを話すと(さっきのおばあさんにも、やっぱり何故ボリビアまで来たのか訊かれて、答えた)、サンファンの貴重な資料を僕にくれた。それからお話を聞く。オキナワの入植から一年後に始まったここサンファンの歴史。本田さんは1962年に長崎から移民して、それ以来一度も日本に帰ってない。ここサンファンでの問題は、教育。教師がいないとのこと。日本から教師を呼んだ場合、給料は月に300ドル。日本から来た人には「はした金」と思われるかもしれないけど、ボリビアの教師の給料は約100ドル。ここには家族で住める宿泊地もある。だけどなかなか定着してもらえない、とのこと。ボリビアでも放送されてる「紅白歌合戦」の話、THE BOOMの「島唄」も何度か聴いたことがあるそうだ。
16時からの教育会議が終わったらサンファン移住地を車で案内したいから残っていかないかと誘っていただいたのに、人見知りの僕は固辞してしまう。サンタクルスに戻れない時間になってしまうだろう。その親切はすごくありがたかったけど。お礼に、THE BOOMのCDをお渡しする。受付の女の子にも一枚。
別れの時間が来て、本田さんが会館の前までコレクティーボを呼んでくれた。握手と記念撮影をして、サンファンを後にしました。
帰りはサンタフェではなくヤシパシという場所で乗り換え(ここまで5B)、そこからサンタフェ行き(18B)、サンタクルス行きと乗り換える。途中、なんどか雨。Tシャツでは寒いぐらいだった。
宿に着いて、上着を着て、すぐ近くのルイージ・ピザスタンドでピザ(23B)。隣のカフェでインターネットをチェック(2.5B)。寒いぐらいだ。部屋に毛布を頼んだ。雨が降っている。石畳の中庭を雨が打つ。日系移民の歴史のことを考えながら22時には寝てしまった。


◎ サンタクルス 2003-02-21

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朝食後、チョービ観光(旅行代理店)。サンタクルスーメキシコシティーの帰路の日程変更をお願いする。次にトラベラーズチェックの両替。最初の銀行(Banco de Santa Cruz)ではマスターカードはできないと断られ、24広場のCasa de Cambioで手数料2.5パーセントで両替……。インターネット4B。ホテルに戻り、3泊分の料金を払う。454B。
ホテルのスタッフに推薦してもらった近所のブッフェで昼食。フェジュアーダ・コン・アロス、肉などブラジル料理のブッフェだった。美味しかった。全部で16Bと安い!
また部屋に戻り休憩。遂にお腹の調子がおかしくなった。この日、もういちど「オキナワ」行きを考えていたけど、あきらめ、ジョン・グリシャムの小説「テスタメント」を読んで過ごす。
オキナワ居住地に行く代わりに、夕方、スーパーマーケットのオキナワへ。みんな、異国でがんばれー。チョービで変更してもらった航空券を受け取る。親切。
ウルグアイ・アベニュー近くのMr. Caféという店で日記を書き、日本人協会を目指す。近くに「さが」というスーパーを見つけ、水を買う。やっぱり九州出身の方の店だろうか。


日本人協会、宮里さんという女性にいろいろお話を伺う。沖縄出身の方。「島唄」は何度もラジオで流れたそう。紅白歌合戦を見て、夏川りみさんら同郷の歌手の活躍に「支えられた」と話していました。
2002年にアルフレッド・カセーロと共に来日した日系ミュージシャン、フリオ新垣はこのサンタクルス出身らしい。フリオたちのバンド、ニセタリュウがライヴをしたことのある会場を見せてもらった。子どもたちが踊りの練習をしていました。去年、ニセタリュウが来てから、サンタクルスでも三線を練習する人が増えたそうです。
さっきのスーパー「さが」のオーナーのご子息のバンドが「島唄」を歌ったそうで、紹介してくれるということ。20時に「SUKIYAKI」というお店で打ち合わせ。バンドのボーカルとドラマーに会えるそう。うれしい! 取材したい!
ホテルまで歩き、インターネット3B。日本のMIYAに今日のことをメールで伝える。
でも、残念ながら会えませんでした。SUKIYAKIレストランに着いて中に入ると(ホテルからはラジオタクシー9B)、伝言を預かっていた女性従業員から「宮里さんは家族の具合が悪くて来られない。バンドの人たちとは連絡が取れなかった」と聞かされる。仕方ない。突然、お願いしに行ったのだから。ひとりで、店に置いてあった移民の雑誌を読みながら食事。
牛肉の野菜巻き定食とブラジルのお茶。
食べ終わると宮里さんの同僚という女の子が話しかけてくれた。サンファン出身、日本には福岡に一年間いたことがあるという。オシャレで、ボリビアに来る日本人バックパッカーについては「なんであんなに汚い格好をしているんだろう」と言っていました。これは僕自身にもあてはまる! 「インターネットのおかげで日本との距離はあまり感じない」とのこと(地球の反対側なのに!)。「一世の人たちは日本語しかできずにNHKを流しっぱなし」「サンファンは蚊が多くて気が狂いそう」「みんな音楽をネットで聴いている」。九州出身者が多いサンファンとオキナワでは気質の違いもあって、「オキナワの人たちはパワフルで目標に向かってみんなでがんばっている」。「サンファンへ行く途中のブエナビスタという場所の坂が好き」……などなど。若い日系女性と普通に話ができてよかった。ありがとう!


店を出て、ホテルまでは歩いて帰った。キリスト像のあたりまでは緊張した。途中のカフェでエスプレッソとケーキ(ショコラ?)。ケーキは甘すぎて半分でギブアップ。今日は金曜日なので街に人が多い。ボリビアのカルナバルはブラジルと同じく来週末からスタートする。前夜祭は一ヶ月前から毎週金曜にあるそうで、ここサンタクルスとオルーロのカルナバルは独特なそうです。
と、歩いていたらパレードに遭遇した。ブエノスアイレス通りのあたり。先頭は綺麗に装飾したジープやトラックたち。荷台にQUEENが乗っている。続くのはさまざまな(共通するのはきらびやかなところ)衣装の人たちとブラスバンド。ひとつのグループは50人ぐらいで構成されていて、チームごとにテーマがあるらしく、「サファリ」であったり(檻もあって、その中には着ぐるみのゴリラもいた)、南米の先住民っぽい仮装だったり、いろいろ。24広場は観客でいっぱいだった。花火、音楽、パレード!
23時過ぎにホテルに戻る。毛布をもう一枚持ってきてくれた。親切。軽くパッキングしてすぐ寝るが、夜中に何度も目覚める。
さあ、明日からペルー。


◎ クスコ 2003-02-22

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目が覚めたとき、わけがわからなかった。
いまもわけがわからない。今朝は午前4時に起きた。寒いけどシャワー。5時に予約しておいたタクシーでサンタクルスの空港へ(50B)。空港のカフェでポン・デ・ケージョとコーヒーで10B、空港税が25ドル(高い!)。
ラパス経由ペルーのクスコ行きの901便に乗った。7時発のはず。搭乗して離陸前にシートで寝てしまった。機内アナウンスで起こされ、下ろされたら、そこはラパスではなく、まだサンタクルスだった。しかも時間は7時42分。故障なのだろうか。そうなるとクスコへの接続はどうなるのだろうか。寝起きだし、スペイン語では皆目わからない。
結局、飛行機は8時50分ぐらいにサンタクルスを飛び立った。ラパスはさすがに標高4000メートルの高所で、空港の中にいるだけで息が苦しかった。急いでクスコへの国際便へ乗り換え。ボリビア出国の身体検査は、実際に個室で身体に触られるタイプの厳しいものだった。
このフライトでは、ボリビアのサッカーチームと一緒になった。僕の隣はFW君。片言のスペイン語で会話。


クスコの空港もさびれていた。1989年にこの空港に来たときのことは全然思い出せない。空港のインフォメーションで、ガイドブックで候補のホテルを指で示すと、タクシーに乗せられた。なぜか彼女も同乗してくる。その女性は、マチュピチュ・ツアー(100ドルもする!)を勧めるのが仕事だった。
ガイドブックには「新しくモダン」と書いてあったが、「古くて暗い」部屋。おまけに空港では17ドルと聞いたのに26ドル。ディスカウントを申し出なかった自分の責任……。
サンタクルスからお腹の調子がおかしい。おまけに雨。一度、クスコの中心の広場、プラサ・デ・アルマスまで歩いたけど、また部屋に戻る。14時過ぎにもう一度でかける。目的地は「プカラ」。日本人が経営するカフェレストラン。1989年にほぼ3週間、このクスコに滞在したときは毎日のように通っていた。13年ぶりの再訪! 素焼きのカップやソーサーは昔と変わらない。木のぬくもり。やっぱりこの店は大好き。一気にペルーに帰ってきた気分になり、今回の旅で初めてほっとした。オーナーの鈴木さんはいなかったので夜また来ることにするが、とりあえずワカモレとチキンスープ・リゾットとコカ茶を頼んだ。美味しい。全部で20sol。


クスコまで来て、ようやく外国人旅行者の姿を見ます。サンタクルスには全然いなかったからなー。英語が聞こえてくるのが珍しい。
今日のテーマ。もっといい宿を探す。それと、どこかで日本の古本が売られてないか探す。持ってきた本は読み終えてしまった。
宿はプカラの近くにある「ラブラドリー」という小さなホテルを見つけた。20ドル。明日からそちらに移ろう。本屋は見つからなかった。これだけ外国人旅行者がいれば古本屋がありそうなのに。
「古くて暗い」ホテルに戻って、シャワー。意外と温かいお湯が出た。洗濯してもらおうと服をフロントに持っていったけど、料金が5solの上、できあがりは翌日になると言われ、宿の前にあった洗濯店へ。そこは3solだったけど、やはり翌日になると言われたのでやめました。ということでいまは着替えなし。
それから昼寝。雨が降ってたから外に行けなかったし(傘がない)、たぶん疲れていたんだと思う。3時間も眠った。


20時過ぎに行動開始。プカラを覗いたけど満員で入れなかったので、先に「Pedaso」というアルパカ製品のお店へ。ここでお土産を買うことに決めた。オリジナルデザイン、すごくいい。セーターは50ドルぐらい。ドルがもうあまりなくて、日本円の両替レートを訊いたら1000円が24solと言われた。これは悪すぎる。
21時30分にプカラへ。ワカモレ、ツナスパゲティ、コカ茶。ツナスパゲティは1989年と同じ味だった。鈴木さんとは再会できず。また来よう。
アルマス広場の周りを歩いて、最後にインターネットカフェ1sol。広場から見上げるクスコの夜景。丘に灯るオレンジの灯りたち。

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◎ チンチェーロ 2003-02-23

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このホテルの朝食はコンチネンタルだ。コンチネンタル式というのは、パンとジュースとコーヒーのこと。コーヒーはピッチャーにその原液のようなものが入っていて、カップにはお湯が入っている。変わったシステム。
食べていると日本人の女の子ふたり組が入ってきて、びっくり。マチュピチュにいて、これから高山列車でプーノ、ラパス、ナスカだそうです。
10時ぐらいに「ラブラドリー」に移った。一泊15ドルだった。しかもチェックアウトするときに払えばいいそうだ。ベッドが3つもある部屋をひとりで使う。昨日より全然いい。フロントも親切。ランドリーサービスを頼む。
ピサック行きを考えていたが、フロントのお勧めによりチンチェーロという小さな村に行くことにする。車で往復で65sol。英語を話すガイドと運転手とその姪っ子が前に座って、約1時間の登り坂を行く。
チンチェーロの市は本当にインディヘナの人ばかりだった! これが僕の憧れのアンデスの風景、人たち。アルパカのセーターやブランケット、民芸品、織物、素焼きの皿、地元の人たち用の野菜、コリアンダー、バナナなども売っている。
しばらく市を見ていたが、雨が降り出して、坂の上にある暖炉のあるとても綺麗なレストランで雨宿りをした。なんでこんな村にこんな店があるのと不思議に思うぐらいのおしゃれさ。マッシュルーム入りのオムレツを食べて、お茶を飲む。


14時頃、クスコに戻る。十二角形の石を見に行ったが、腹痛がするためにホテルに戻る。昼寝をすれば治るかと、寝ようとしても眠れず、でもとにかく夕方までは部屋でじっと過ごす。外は雨。17時頃、外出。Pedasoでセーターを買う。59ドル。日本語ができるインターネットカフェに入る(2sol)。隣の席に日本人がいた。Pedasoでもらった市内地図がすごく役に立つ。
路地裏にピザ屋など欧米人旅行者向けの店がたくさんできている。客引きも多い。僕は夕食を食べる場所を探して歩いていたのだけど、ひとりだということとお腹の調子が悪いということがあって、なかなか店を決められない。結局、プカラの近くのカフェ・バラヨクへ。コカ茶とトマトスープとスパゲティ。スパゲティが食べられず半分以上残す……。20sol。そのあともうホテルに直行、ハナレグミ、オザケンを聴きながら本を読み、22時前には寝てしまう。


◎ クスコ最後の夜 2003-02-24

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昨日から寒気がする。そしてお腹の調子が悪い。
朝食後、インターネット(2sol)。宿に戻ってペルーのリマに電話して、チケットのリコンファーム(ホテルからしたのだが18solもした!)。
カフェ・アイヨーでヨーグルトとコカ茶8sol。
広場の近くのカテドラルとサンブラス教会を見学。周遊券10ドル。1989年にこの教会を観た記憶がまったくない。宗教画と、金、銀を使った壮大な祭壇に圧倒される。でも昨日チンチェーロで会った人たちのことを思ってもやもやも残る。
遅い昼食に、日本人が経営するレストラン「金太郎」へ。てり焼き定食10sol。長旅をしてきたらしい日本人男がいて、金ちゃん(女性、マスター)との写真撮影を頼まれる。そのあと日本人の旅行者たち、バックパッカーらしいグループが入ってくる。みんな他のグループとは口をきかない。
アルマス広場を見下ろすカフェでカフェ・コン・レチェとインターネット。ひとりでいるとカフェばっかり入っている。部屋に戻る。


夜、プカラで鈴木さんと再会。
「鈴木です」と、鈴木さんのほうから挨拶してくれた。こだま和文さんみたいな風貌、物腰。「1989年に通っていたんです。このトレーナー覚えていますか?」(プカラが開店したのは88年)と、僕はずっと大事に着ていたこの店のトレーナーを見せる。「もちろんですよ」と握手。世間話。共通の知り合いが5年ぐらい前に日本からクスコに戻ってきてガイドになっているということ(今日は近郊の村に泊まってるとのことで会えなかった)などなど。
チキンとご飯(めちゃめちゃ美味かった)とポテトサラダ、コカ茶で28sol。
「また来るときまでお元気で!」「10年後?」そんな会話をして、また握手をして店を出た。クスコに来て良かった。
またアルマス広場のカフェへ。クスコの夜景は美しい。


◎ クスコから再びサンタクルスへ 2003-02-25

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まったく早朝出発のプレッシャーには弱い。
夜中に何度も目を覚ましてしまった。6時にシャワー、予約しておいたタクシーで空港へ(5sol)。ベッドには2ドルのチップを置いてきた。タクシーの車内は臭かった。何を乗せてたんだろう。獣の匂いだ。窓を開けて耐えた。
空港ではポストカードを書いたり、歩いて過ごすが、いまだお腹の調子がおかしい。
クスコからボリビアの首都ラパスにまた戻る。ラパス空港での乗り換え時間に、バーガーキングでダブル・バーガーとスプライト18B。スペイン語がわからない僕を、後ろに並んでいた男性がスマートに助けてくれた。
サンタクルスでは次の飛行機まで数時間あるので市内に出ることにした。30ドルを両替。空港に荷物を預ける(5ドル!)。乗り合いバス(4B)で市内へ。数日前に立った場所なのになぜか懐かしい。24広場のカフェ、そしてまた「KENちゃんの店」で夕食、生姜焼き定食と麦茶(20B)。
タクシーを拾い、空港に戻る。100キロほどのスピードを出していて怖い。信号で車が停まると、子どもたちが窓を拭いたり、新聞を売りに来る。
空港では出国税に4ドル必要だった。ポストカードを買い、コーヒーを飲み、残っていたボリビアの通貨を全部使う。
ここからが長い旅路だ。


◎ 長い移動 2003-02-26

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長い一日だった!
いまは20時44分。サンフランシスコ。チャイナタウンのA-1カフェで、チキン・チャウメンを注文したところです。
サンタクルスからパナマ(!)までの機内は記憶にない。ずっと眠っていた。パナマで給油のためにストップして、乗客は機内から降りることができた。朝の4時に、まったく知識のない異国の空港を歩く。こんな時間から店を開けている方も大変だ。
パナマからメキシコシティーまでの機内も記憶がない。
ただ、お腹の調子がいまだにおかしく、空港に着いてトイレに駆け込んだ。
メキシコシティーの空港に着いて、本来はメキシコ市内で一泊して翌日にサンフランシスコへという予定だったけど、もうメキシコに泊まる気持ちがなくなっていた。早くアメリカ、それも馴染みのあるサンフランシスコに行きたい。だから、ボリビアからメキシコに戻ったその足で、United Airのカウンターに行き、「翌日のチケットを持っているのですが、今日に変更できないですか?」と訊いてみた。五分五分の確率かと思ったけど、手数料なしでチケットが取れた! 国際便でこんな変更も簡単にできるんだ! それもいますぐ乗れる! 
急いで残っていたメキシコの通貨ペソをドルに換える。そのドルで朝食。ビーフタコスと水。屋台のタコスの方が空港のタコスより100倍美味い。
サンフランシスコに向かう機内。機内食にはエンチラーダが出た。メキシコで(上空だけど)初めてタコス以外のものを食べた。スチュワードが、強圧的なジョークを飛ばす人で苦手。昔、通っていた英語学校の教師に似てる。


同日朝の9時過ぎにサンフランシスコに到着。ほーっとする。もう何とでもなる! イミグレは日本人の団体で長蛇の列だけど、気にならない。入国して、空港内のTravel Agencyを初めて訊ねる。ディスカウントがあるかと思ったんだけど、「ダウンタウンで100ドル以下」というこちらの条件に対して最初に向こうが提示してきたのが、シビックホール近く、マーケットストリートの60ドルのホテル。こちらがさらに「ユニオンスクエアの近く」という条件を出すと、電話をしてくれ89ドルのホテルを。うーん、断ると「もう紹介しない」と向こうが怒りだした。もう自力でなんとかする。
シャトルバス15ドル。車内で出会ったサンフランシスコ在住の日本人女性が宿を決めていない僕を心配してくれて(何とでもなると思っていたのだけど)、いろいろアドバイスしてくれた。VanessaあたりのInnは安いとか。
ユニオンスクエアでバスを降りる。旅行代理店を探して、そこで紹介してもらおうというつもりだったけど、あれ、このへんになかったっけ? チャイナタウンの入り口にあるホテルを覚えていたから、THE TRITON HOTELで値段を訊いたら、139ドル! 高すぎる。そのままチャイナタウンで、A-1カフェ。え、15年ぶり? ランチスペシャルのスペアリブ・ブラックビーンズ・オーバーライスとお茶。


昼食後、クレイストリートを歩く。チャイナ系ホテル(60ドル)を見せてもらったが、暗い感じだったのでやめた。疲れていたので、もうTRITONで奮発しようかと思ってたところで、ALISA HOTELというサインを見つけた。二階のフロントに上がるとすごく気さくそうな感じだった。値段を訊いたら、159ドル。これはムリだと思ったけど、よく聴いたら59ドルだった! 部屋を見せてもらうと広くて清潔。バスルームは共同だったけど、ここでいい!
チェックインしてシャワー。久しぶりでずっと浴びていたかった。
そして洗濯。2ブロック先のコインランドリーで。なんだか18歳のときの初めてのサンフランシスコのようだ。ランドリーに置いてあった「SF Weekly」を見ていたらいろんなイベントが週末に集中している。Karsha Kaleのライヴもある! 1ブロック離れたインターネットカフェへ。速い! カフェラテと合わせて6ドルと値段はさすがに南米と違うけど。
ユニオンスクエアの角、「Bourders」という書店で「Cafes of San Francisco」という本を買う。続いて、Ansoniaを目指す。711 post street。住所はきっともう一生忘れない。18歳のときに暮らしていた場所。中に入ってみる。フロントのアジア系の男性に値段を訊くと、「学生か?」と問われた。一泊69ドル朝食付きだという。でも学生専用なのか。懐かしかった。あのピザ屋もあった! あとで絶対また来る!
JAPAN TOWNまでそのまま歩く。これも昔と同じだ、紀伊國屋で結局また「遠い太鼓」を買ってしまう。何冊目だよ! 「・・寿司」というこのJAPAN TOWN内の寿司屋のアルバイトを一日でクビになったことを思い出した、バスで市内に戻る。そしてさっきのピザ屋へ。昔は小さかった子どもたちがピザを作ってた。女の子はセクシーに、男の子は太い腕を持っていた。あの頃と同じようなチーズピザをto goで。そのまま持って歩きながら食べた。すれ違った黒人の子どもが僕を見て、「ピザ、ピザ」と叫んだ。
再び、BourdersでEssenseという女性シンガーのインストアライヴを観る。夕食は、昼と同じA-1カフェ再び。
23時には寝てしまう。


◎ ノースビーチ 2003-02-27

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朝6時に目が覚め、シャワーを浴び、ベッドの中で昨日買った「遠い太鼓」を読む。旅先でいちばん回数多く読んでいる本。7時には外に出た。 クレイ・ストリートを登って、ノースビーチへ。
カフェ・グレコでエスプレッソのダブルと、クリームチーズを塗ったベーグルで朝食。美味しかった。
フィッシャーマンズ・ワーフまで歩く。ピア39。アシカの群れ。
信号無視で警官の衣装を着た男に呼び止められ、「ああ、その手口知ってるよ」「It’s a Joke」。バーンズ&ノーブルズ(書店)に入る。
ノースビーチのイタリアン、Steps to Romeでペペロンチーノとコーラの昼食。チップ込みで11ドル。ウエイトレスの素晴らしい笑顔。
シティライツ・ブックストアで、本、雑誌、ポストカード、バッグなど50ドルぐらい買い物。
ダウンタウンまで戻り、10000円を両替。80ドルぐらい。インターネットカフェ、エスプレッソのダブル6ドル。一度部屋に戻る。
バスに乗ってHaight Stへ。店員がDJしているアナログレコード屋、アナーキストのためのインフォショップ、通りの一番奥にあるCDショップで、CAT POWERのアルバムを2枚買う。一枚は永積くんへのお土産。CAT POWERは昨日インストアライヴがあったそうだ。残念。
バスに乗ってPowellまで戻る。そこからBART(地下鉄)でバークレーへ。2.75ドル。駅の近くは閉じてる店が多かった。なぜかSleep Aid(6ドル)だけスーパーで買って、またPowellに戻る。
最後の夕食はまたチャイナタウン。A-1カフェではなく違う店。店内はラジオからテクノが流れている。春巻、ビール、ビーフ・オイスターソース・オーバーライス、25ドル。ひとりで食べるには量が多すぎ!


◎ 帰国の日 2003-02-28

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いよいよ最後の朝。Grant StとBush Stの角、Cafe de la Presseで朝食。
スクランブルエッグ、ポテト、フルーツ、トースト=5.9ドル、コーヒー2.5ドル。
一度部屋に戻り、シャトルバスの予約(12ドル)。
最後の外出はユニオンスクエアの書店へ。もう特に買うものはなくぶらぶらと。ティーンエイジャーの女の子たちが床に座り込んで、雑誌をめくっていた。本屋がやりたいなあ。 ダウンタウンで、インターネット5ドル! 日本からメール。ラジオ番組、継続だそうです! ホテルに戻り、それからオレンジジュースを売ってるグロッサリーを探すものの見つからず(4ブロック歩いた)、結局、ホテルの自販機で缶のアイスティーを購入。空港に行き、サンフランシスコから日本へ。旅は、おしまい。


※今回の旅日記は、旅行中に上のノートに付けていたメモをほぼそのまま書き写したものです。旅行中、僕は弱音をたくさん吐き、食べ物の値段をメモっていることが、8年後に判明しました。2011年7月記す。

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