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【行方不明展】いなくなりたい人、いなくなりたくない人、いなくなれた人

行方不明展に行ってきた!!チケットは前にとっていたけど、仕事や休みの兼ね合いで終盤も終盤に滑り込むような形に。ピーク時に比べれば随分人の入りは少ないのだろうけど、それでも結構賑わっていたように感じた。

であるので周囲には人のざわめきが当たり前にあって、オモコロの原宿さんが感じたような(トークライブ「個人的な不気味さについて」見ました)飲み込まれるような感覚はなかったけど、代わりに「この人たちはいなくなりたいのかな」と周りの来場者に思いを巡らせてみることを無意識にしていた。

男性。女性。一人。友達同士。カップル。車椅子に乗っている人。「あんまり怖くないね」と笑う人。神妙にじっと見つめて、たまに頷く人。小声で考えを交換しあっている人。この人たちはどうしてこれを見に来たんだろう。クリエイターの方が好きなのか、話題になっていたから来たのか、当日券でふらりと寄った人もいたかもしれない。もう何巡もしている人ももしかしたらいただろうか。

行方不明展は、見た人の中の「いなくなりたさ」に呼びかけるような作用があると思った。いなくなりたいと強く願う人、ぼんやりと思う人、いなくなりたいなんて考えたこともない人もきっといる。その人たちがそれぞれ生きてきた感覚のフィルターを通った先で、あの展示物たちは作用する。それによって恐怖感や安心感や面白さすら各々抱くのだろうなと、当たり前のことを考えていた。

ずらりとべたべた貼られた「さがしています」の紙を見て、さがす側の“執念”のようなものを感じ、そこで『さがす人』と『さがされる人』のある意味意識の断絶があるような気がした。いなくなりたいと強く願った(そしていなくなれた)人ほど、周りの人にはそうと悟られていなかったなら。あの子が、あの人がいなくなる訳がない。という思いには、その人の「いなくなりたい」を受け入れる隙間はない。
強い口調。書き殴ったその筆圧や、細かく羅列された「かえってきて」の懇願。雨風に晒されて滲んだそれは、悲愴感以上の迫るものを抱え込んでいる。怖いものにすら映ってしまうその異様さは、いなくなってしまった人たちとの(意識的にも空間としての軸的にも)交わらなさを表していているように感じた。自分たちにこれらが異様に映っているのと同じくらい、『さがす人』にとって、行方不明のその先の世界は理解し難くとても届かないものなのかもしれない。
様々なかたちをとって並べられている「行方不明」を見て、不安感を覚えるか安らかさを覚えるか。必ずしもその二項だということではないが、どちらが胸に生まれるかで『さがす人』『さがされる人』どちらに心が近い位置にいるか測ることが出来るだろうか。

考察などが難しくて苦手な自分は、さがす人・さがされる人という二項について斯様にぐるぐる考えていたが、展示は章ごとに分かれてストーリーの繋がりや考察の巡らせようがたくさんあった。
もちろん純粋に展示物ひとつひとつをじっと見つめて楽しむことも出来るし、映像作品はただ眺めるだけでも不気味で面白いものである。「行方不明」というひとつのテーマながらにあらゆる視点から味わえる美味しすぎる展示会だった。個人的には「犬の散歩の動画」が一番ゾッとしました。

この人たちは「いなくなれた」のだ。と思いながら。振り返らずに、否が応でも続く日常に没入するように会場を後にした。

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