ハイライト改訂版㉙

 大学の研究室のベランダから外を眺めていた。急にやってきた寒さに立ち向かい、色付いた葉っぱがまばらに木々に残り、申し訳ない程度に景色に彩りを加えている。冬が近いことを感じる夕暮れ時は、シャツの上に着ていたカーディガンだけでは心許ない。自動販売機で買った缶コーヒーで暖を取り、タバコを吸いながら人を待っていた。
 金曜日の夕方に、ここに居れば必ず彼がやってくることを僕は知っていた。もしものことを考えて僕は呼び出してあるが、本当に来るのか、と内心不安だった。
 呼び出した人がどんな表情をして来るのだろうかなんて考えていたら、ある曲のタイトルが浮かんだ。『決戦は金曜日』というドリカムの曲名のタイトル。今の状況にピッタリだな、と思ったが、あれは恋愛の曲か、と即座に否定できる程度にクリアな思考を保っていた。
 僕は室内に視線を向けた。ゼミ担当の教授の部屋は物で溢れ返っていて、足の踏み場もないような状況だった。本棚には本が不規則に入れられ、入りきらなかったものは床に置かれており、テーブルにはファイルや書類などが散乱している。天才肌なのか、単純に片づけられない人なのかは定かではないが、僕は密かに前者と思っていた。
 二本目のタバコを吸い始めた頃、少し前まで頼りにしていた明るい声が後方から聞こえた。今日はその声が不快でしかなかったのは、知らぬ間に感情の操作が行われていたことを意味しているのだろう。頭では分かっていたはずなのに、その声を聞いた途端、醜いほど邪な感情が身体の中を駆け巡り始めた。あれだけ頼りにしていた人なのに、と情報操作の成れの果てに僕はどうしょうもない気持ちに苛まれた。
「おっ、珍しい奴がいる」
 僕の姿を見て、おどけた口調で葛西さんは言った。研究室とベランダを仕切る窓は開けぱなしにしてあったので、しっかりと僕の耳に届いた。
「すみません、呼び出して」
 タバコの火を消してから振り返り頭を下げた。年長者を呼び出す無礼者であると表明すると共に謝罪の念を僅かに込める。
「別に構わないよ。どうせ来る予定だったし。でも和樹から呼び出されるのは久し振りだしな」
「すみません、葛西さん」
「だから良いって。代わりにオレにもタバコをくれよ」
 彼はゆっくりと僕のいるベランダへと向かい歩き出す。その姿を見ながら、ポケットからタバコの箱を取り出す。このやり取りは、彼が僕にタバコを教えた時から始まった取り決めのようなものだった。
 彼が横に立ったタイミングで軽く会釈をしながらタバコの箱を向ける。彼は興味深そうに差し出されたタバコの箱を見つめ、箱の中から一本取り出した。ライターを手渡そうとすると、持ってるから、と言って彼はスーツの下に着ていたワイシャツの胸ポケットからジッポーライターを取り出して火を付けた。僕の彼に倣い、三本目のタバコに火を付けた。ベランダに二本の煙が立ち昇る。
「和樹は相変わらず、ソレ吸ってんだな?」
 ベランダから見える並木道を眺めながら彼は言った。
「どうも他のタバコが合わなくて」
「吸わなきゃいいのに」
「それ、タバコの味を語っていた葛西さんが言いますか?」
「まぁな。でも体質ってのがあるだろ? オレはタバコが好きだからいいけどさ、和樹はそうじゃないような気がしててな、少し後悔してんだよ。あん時、お前にタバコを勧めなきゃ良かったかなって」
 少し頬を緩める葛西さんを見ていると胸に潜めた脇差しを出すことに躊躇いの念を抱いてしまう。彼女の件があったとしても、僕にとって彼は重要な存在という認識を拭うことはできないし、そもそも拭う必要もなかった。人間関係の厄介さを思い知らされる。いつかに受講した講義の内容と人物名が頭に過った。
 二十を超えて大人という枠組みに入ってしまっているけれど、やっぱり僕は呆れるほどに子供だった。いつかの就職面談で言葉に詰まった理由を今更になって捕まえることになってしまい、ため息がこぼれた。
「和樹以上にため息が似合う奴をオレは見たことが無いよ」
 彼はそう言って笑い、カッコいいと思ってしまう仕草でタバコを吸う。その姿に呼び出した理由を放棄したくなりそうになった。
「そんなにですか?」
「おう。一時期に比べたらマシだけどな」
 彼が言った時期を正しく捉えられている自信はなかったが、彼女に振られて少しばかり自暴自棄に陥っていた頃なのだろうな、とぼんやりと解釈した。
「マシになったなら良かったです」
「まぁ、最近の和樹を見ていると、昔に戻りつつあるような気がして、オレは不安だけどな」
 どの口が言っているのだろうか、と微かに殺意に似た感情が芽生えてしまう。貴方がおかしなことをしなければ、昔みたいにならなかったんだよ、と言いたくなる衝動を必死に抑え込む。
「そんなに会ってないですよね?」
「会ってなくても、同じ場所にいれば見かけるだろ?」
 彼は大学卒業と同時に大学構内の事務局に就職した。大学が閉鎖されるニュースが耳に入る時代ではあるが、僕が通う大学は入学希望者が増え続けている。人気大学の職員という職業は響きもいいし安定もしているだろうし、職場としては魅力的だとも思う。けれど僕には、講師とは別種類の学校の亡霊という印象の方が強かった。いつまでも卒業できない学生の成れの果て。マイナスな言葉ばかりが浮かぶのは悪い癖だと自覚していても、どうにもならない。
「そんなに僕のことを見てたんですか?」
「あぁ。だって夏くらいまで、キャリセンに入り浸ってたじゃんか」
「あぁ、確かに」
 キャリアセンターに通い詰めていた時期が懐かしい。遠い昔だと感じるが、まだ四か月しか経過していない。スーツ姿で大学と企業に向かっていた密度よりもカメラを持って写真を撮ることを決めてから過ごした短い時期の方が、はるかに濃い。充実という言葉が当てはまるかは定かでないけれど、恐らくその言葉に類する状態にあった。
 正確には暗雲が立ち込めるきっかけが現れるまでだが。


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