ハイライト改訂版㊱

 あの日から、もう三か月が経過した。もう春がすぐそこまで来ていた。
 去年の春から何度も袖を通したスーツ姿の僕は、写真室でカメラの前に座っていた。カメラの向こう側でマスターが真剣な表情をしながら、それでいて時より笑顔で何度もシャッターを切っている。その画が嬉しくて、恥ずかしかった。
「和樹もいよいよ卒業か」
「そうですね」
「今日は卒業式で、明日は受賞式だもんな」
「授賞式って言っても激励賞ですから」
「激励賞も立派な賞だよ。オレも取ったし。これをきっかけにもっと精進しろよ、和樹」
「はい、頑張ります」
 夏に参加を決めたコンクールで、僕は激励賞を受賞した。何も持っていなかった僕が初めて手にした栄冠だった。
「それにしても忙しいな、大丈夫か?」
「去年一年間の方が忙しかったんで。大丈夫です」
「そりゃ、去年はお前の為に、取らなくていい仕事も受けてたからな」
「そうだったんですか」
 僕は驚いた。去年の夏からマスター指定の仕事の手伝いをしていた理由をこの時初めて知った。
「あぁ。和樹が写真に向き合う覚悟決めたからな、師匠として経験させられることはさせてやろうと思ってな。おかげで睡眠不足だし、今も仕事が絶えないよ」
「今までありがとうございました」
 丸椅子に腰かけていた僕は立ち上がり、人生で一番深いお辞儀をした。その姿を見たマスターは、いやいや今日で終わりじゃねぇからな、と言った。
「時間ができたらオレと飲めよ」
 今日は誠治たちと、明日は関係者との飲み会になることをマスターは予期している。その優しさが胸に響く。卒業式前に涙腺が壊れてしまいそうだった。
「んじゃ、行って来い」
 マスターの言葉に背中を押されて、僕は宮野写真館を後にした。

 地下鉄の改札を表口から出た。スーツ姿と晴れ着姿の若者が狭い道を談笑しながら歩いている。去年見ることのなかった桜は、開花宣言を無視して、綺麗に咲き渡っていた。
 四年前に見た桜とは印象が違った。四年前は新しい居場所にワクワクし、地元から解放されたことに高揚感すら抱いていた。でも今は、誠治たちと時間を共有できなくなる現実が寂しかった。あの場所に毎日のように通って、誠治たちと過ごすことはもうない。新しい門出には出会いがあり、そして別れがあることをひしひり感じてしまい、その言葉の本質を掴めた気がした。
 校門まで続く両端に住宅街は僕の心境とは裏腹に普遍的で、登り続けた坂は、相変わらず傾斜がキツイ。僕はその坂道を進みながら、これまでの時間を噛みしめるように思い返した。登り切った先、卒業式仕様に装飾された校門が目に入った。看守部屋のすぐ横には、卒業式と書かれた看板があり、そこには晴れ着姿の彼女が立っていた。僕は右手を挙げて彼女に合図をする。合図に気付いた彼女は、笑顔で手を振った。
「遅かったね」
「ゴメン。ちょっと写真館に寄ってきた。茜ちゃん、晴れ着似合ってるよ」
「ありがとう。カズ君もスーツ決まってるよ」
「ありがとう」
「……もう卒業だね」
 彼女は立て掛けられている看板を見て呟いた。僕は頷く。そして「写真、撮ろうか?」と言った。
「いいの?」
 彼女は嬉しそうに答えた。
「うん。茜ちゃんが、僕の将来を変えてくれたから。そのお返しをするよ」
「それじゃあ、お願いします」
 彼女は看板の横に立った。僕はカバンから愛用のカメラを取り出してファインダーを覗き、何度もシャッターを切った。
「いい写真、撮れた? ってカズ君に聞くのは失礼か」
 微笑む彼女に向けて僕はいつかに言った変わらない想いを口にする。
「知ってる? 世界中にいるカメラマンの中で、一番茜ちゃんのことを綺麗に撮れるのは僕なんだよ」
 彼女は照れくさそうに頬を赤らめ、うん、と言って頷いた。
 そんなやり取りをしていると後方から聞き慣れた声が聞こえてきた。僕は振り向かず、声の主たちが僕達の所まで来るのを待った。
 今なら分かる気がする。僕自身を単語五つに例えるなら、という問いに。大人になることの本質みたいなものを。漠然とだけど、今はそれでいいと思った。
これからどうなるか、そんなことは分からないけど、多分乗り切れる。卒業して毎日のように会えなくても僕にはアイツらがいる。そして彼女は、これからも横に居てくれる。そのことが臆病者だった僕を支えてくれる。
 僕は手を伸ばし彼女の手を握った。小さな手から伝わってくる暖かな体温を感じて、僕は幸せという抽象的なものに浸った。彼女は驚いた表情を浮かべ、さっきよりも頬を赤らめながら優しく微笑み、僕の手を握り返した。
「お前ら、何イチャついてんだよ」
 翔平のうるさい、それでいて嬉しそうな声が聞こえた。その方向に目線を写すと、そこにはニヤニヤしている四人の顔が並んでいる。
 僕は彼女の背中を押して、四人と合流するように即した。それぞれの旅立ちを胸に秘めている五人の晴れ姿を見つめてから、僕はカメラを構える。忘れられない一瞬を写真に残すために。
 ファインダー越しから見える五人の姿は眩しく見え、一緒に映れないことを不覚にも後悔してしまい、気付けば溢れ出す想いが頬を濡らしていた。
 この風景は僕にとってのハイライトだ、と呟き、シャッターを切った。彼らの姿を刻んだシャッター音が春の風に乗って、僕の居場所の中に溶け込でいった。
                                  
                了

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