40日間は短い

 女は小さくなっていく飛行機を見送りながら呟いた。
「40日間は短い」
 しかし内心では痛いほどわかっている。短いはずがない。同じ屋根の下に住み、毎日顔を合わせていたのだ。愛する人の帰りを待つこれからの40日間は、女には永遠より長いもののように思われた。
 これから育っていくであろう喪失感を抱えながら帰途に就く。予定通りスーパーに寄ったはいいが、何を買っていいかわからない。自分のためだけに作る料理など、どうでもよく思えてしまう。腕によりをかけて作った料理が次々と食べられる様子を眺めるのは、女のなによりの至福の時間だった。
 女と男は、およそ1年前からふたりきりで暮らしている。通学に便利な部屋に引っ越してきたのだ。当然長く暮らしていれば、ずっと仲睦まじい関係を保つのは難しい。言い争うこともあったし、話をしても空返事されるようなことだってしょっちゅうあった。
 とはいえ、だ。40日も離れていなければならないというのはまさに前代未聞だ。これまでの最長期間は友達とスキーをしに行った3泊4日。その時でさえ不安と心細さでいてもたってもいられなかったのに、今回はその10倍だ。
女は改めて気が遠くなるのを感じた。
 そもそも留学の話が出たときから女は乗り気ではなかった。あれこれ言って気を逸らそうとしたが男が意思を曲げることはなく、大学の奨学金にも採用されて留学は決定事項となってしまった。
 強盗、薬物、感染症、偽タクシー、ハニートラップ……実際に男が旅立った今、毎日泡のように沸いては消えていた不安の数々が現実味を帯びて心を埋め尽くしていた。

 味気ない夕食を済ませ、少しでも気を紛らわせればと入会しておいた動画配信サイトで、以前から見たかった映画を観ることにした。
 家族愛をテーマにしたその映画は、評判に違わず確かに面白かった。プロットも練られていて、演出も好みだ。しかし、無意識のうちに、中盤で登場した俳優に男の姿を重ね合わせてしまった。結局、映画鑑賞はその映画の内容も相まって、孤独感を助長するだけであった。
 映画を観終わると、女は衝動的に男に電話をかけようとした。ちょうど向こうに到着する頃だろうか――発信ボタンを押す寸前で女は思いとどまった。
 男と約束をしていた。緊急の用事以外、電話は男の方からかける。男の方から半ば強制的に持ち出された約束だったが、女は破るわけにはいかなかった。
 自分の愛が重すぎるかもしれないことは自覚していた。今回の留学だって、男が少し距離を置いてみたくなったのかもしれないとも薄々感じていた。
 これは自分との闘いだ。女は自らに言い聞かせた。せっかくの留学を邪魔するわけにはいかないのだから。
 そしてふと思い出す。自分は1週間後に誕生日を控えている。男は覚えているだろうか?電話をしてくれるだろうか?してくれたなら自分にとって最大の誕生日プレゼントになるだろう。
 不安と期待とが入り混じった心の中で、女は念じるように唱えた。
「40日間は短い」


 男は寮の自室で考えごとをしていた。
「40日間は短い」
 できればもっと長いことこっちに居たかった。生まれて初めての異国だ。もちろん出発前は、慣れた環境を離れて異言語が飛び交う世界で暮らすことには不安も大きかった。それでも1週間過ごしてみて、早く帰りたいという気持ちよりも、より長くこの新鮮な体験をしたいという気持ちが強くあった。
 それになにより、女のもとを離れて生活するのが、男には心地よくてしょうがなかった。依存的ともいえるような強い愛情を注がれ続けるのはありがたいことではあったが、同時に暑苦しいことでもあった。
 もっともその愛の重さも十分理解できる。女は浮気されて心に深い傷を負っていた。自分に対する愛が激しいのは自然なことだろう。
 男は、女に趣味の一つでも見つけてほしかった。スポーツ、ゲームから語学まで様々な趣味を持つ身としては、女が男のことばかり考えて暮らしているのは理解しがたいものだった。
 この離別の期間がその助けになってくれればと思い、女が毎日のように電話してくるであろうことを見越して、男は例の約束をしたのだった。こちらに来てから、まだ無事到着したことを報告する短い電話しかしていない。半分過ぎた頃にもう一度かけるくらいでいいだろうと思っていた。
 しかし、ふと日付を見て、男は新たな環境に夢中で忘れかけていたことを思い出した。時差を考え、日本が夜であることを確認する。この時間なら電話に出られるだろうと安心し、スマートフォンを手に取った。
 電話をかけると、すぐにつながった。男は少し照れ臭そうに言う。





「母さん、誕生日おめでとう」


―了―

※この物語はフィクションです。現実世界とは一切関係ありません。

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