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noteはじめました。

 わたしは理系の大学院生で、普段は感情が極限まで排斥された文章を書いている。いわゆる学術論文と呼ばれる理科系の作文だ。学術論文は事実と意見のみで構成される。膨大な実験データから導かれた事実と、その事実に基づく筆者の意見だけが書かれた無機質な文章だ。このような文章では、何度読み返しても書き手の感情が垣間見えることはないし、どんな人たちがどんな思いで書いたのかなんてもちろんわからない。何回読んでもそこにあるのは事実と意見だけで、どこかちょっと冷たい。

 とはいえわたしは学術論文を書くことが嫌いじゃないし、むしろ好きだ。世界中でまだ誰にも検証されていない自分だけの実験を論文にまとめ、それを発信する瞬間には何ものにも変えがたい高揚感を感じる。発信された論文はどこかの大学の図書館、あるいはウェブ上で恒久的に公開され、顔も名前も知らない世界中の読者の目に留まり続ける。これからもたくさんの論文が書けたらいいな——と思う。


 ここ2、3年は自分なりに研究に没頭してきたつもりだ。夢だった自分の論文も投稿できたし、学会発表もそれなりにさせて頂いた。さあ博士課程も頑張るぞ、と意気込んでいた矢先にコロナで研究がストップした。

 はじめのうちは読みたかった本を読んだり、観たかった映画を観たりして自粛期間を満喫していたが、だんだんと飽きてきて最終的にはベッドの上でぼーっと考え事をする時間が続いた。主に研究のことに関してああでもない、こうでもないと考えていたが、次第に過去を思い起こすようになった。

 思い返してみて気づいた、なんか記憶が途切れ途切れだ。研究に関すること——読んだ論文の内容や試した実験の詳細——は鮮明に覚えているのに、なぜかプライベートの記憶が漠然としている。友人の名前も、先生の名前も、部活仲間の名前も一言一句間違えずに覚えているのに、それぞれの思い出がところどころ抜け落ちている。中学生のわたし、高校生のわたし、大学生のわたし、もっとなんかいろいろあったよね?

 思い出せないことが怖くなって周りの友人に相談してみたが、24歳にもなるとどうやらみんなこんなもんらしい。理解はできたが納得はできなかった。誰にも打ち明けず、心の奥底に大切に仕舞い込んでいたわたしだけの思い出がいつの間にかこぼれ落ちていたなんて、そう簡単に納得してたまるもんか。こんなことなら日頃から日記でもつけておけばよかった——とも思ったが、そんなマメな人間ではないし、もう手遅れだ。

 ただ、勝手に抜け落ちていくとわかった以上、これからは何か手を打たなければならない。このまま論文だけを書く生活を続けていたらわたしの大切な思い出たちがどんどんこぼれ落ちてしまう。なんでもいいから何か、抵抗しなきゃ。


 大学二年生のときに一眼レフを買ってから写真を撮ることの愉しさを知った。以降、事あるごとにシャッターを切ってきたが写真だけじゃまだ不明瞭、文章がほしい。その時々の瞬間的な感情を書き留めた文章。24歳のいま、何をして何を思っているのか自由に刻むことができる場所。そうだ、noteだ。

 ここなら、わたしの備忘録を公開しても問題ないだろう。こういう作文は読み手がいた方がいい——と、個人的に思う。誰かに見られているという実感があるだけで緊張感が生まれ、その緊張感がわたしに筆を執らせるはずだからだ。簡単にはさぼれないぞ←盛大なフラグ

 noteは作文するのにもってこいのツールだと思う。ある程度の長文を書きたいときはツイッターの140字じゃ物足りないし、本一冊だと長すぎる——と、あの落合陽一先生も言っている。

 実は以前、noteで文章を書いていたことがある。その時は匿名で、商品紹介レビューなんかを書いていた。なんとなく今回は実名でやってみようと思う。

 わたしの感情を、わたしの言葉で紡いでいく。読み返すと当時の感情が垣間見えるような、当時のわたしがどんな思いで書いたのか伝わってくるような、どこかちょっと暖かい、人間味にあふれたnoteにしていきたい。

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