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8月6日が来ると。

8月6日午前8時15分。毎年この日が来るのが、私にとっては、少し特別だ。

私の父方の祖母と母方の祖父は被爆した。厳密には、原爆が投下後に爆心地入りした、というのが正しいのだけど。

父方の祖母は、妹が爆心地付近で働いていて、その妹を探しに来た。
母方の祖父は、高校卒業後、税務署に勤める修習生で、たまたま宮島に合宿のようなもので来ていて、手伝いで爆心地入りした。

そんな二人はもうこの世にはいないのだけど、特に祖母からは休みの日に行けば、寝物語のように「ピカドン」の話を聞いていた。幼い頃はそれがどれだけ恐ろしいものかは朧げにしかわからず。「ねぇ、おばあちゃん、今日もピカドンの話?」とちょっとウンザリしつつ、枕元で祖母が話すのを聞いていた。

その反面、祖父からはほとんど原爆の話を聞いたことがない。なんたって彼はその時18才だったのだし、とにかく助けることに必死で、あまり覚えていないんだろう(と思っていた)。

私が小学校四年生の頃、「黒い雨」を家族全員で観に行った。髪の毛がごっそり抜ける田中好子の姿や亡くなった人の幻影に惑わされる市原悦子の姿を見て、子供心にひたすら怖いと思った。

よく夏休みの日記には、黙祷したことや、広島のことを綴った。学校の先生は、「大切なことですね」とコメントしたり、赤線を引っ張ったり、花マルがついていたり。私が通っていたのは広島ではなく、兵庫県西宮市の学校。広島ははるか彼方に追いやられていて、平和教育は学校でと言うより、自ら関心があって、積極的に本を読んだりしていたように思う。半ば使命のように。これは私だけで、同じ広島生まれの妹がそんなふうにしているのは見たことがない。

社会人になって、祖父から原爆投下後の行動について、唐突に話されたことがある。徒歩で宮島口から歩いて、市内まで入って来たとか、淡々と。その時の惨状についてはあまり語られることはなかった。部屋のどこかにその時に聞いたことを走り書きしたノートがあるはずなんだけど…。

少し前にとある外国人から、広島出身なの?と聞かれて、じゃあ被爆者が家族にいる?と言われたことがある。父方の祖母と母方の祖父が、と答えると、It's OK.という反応だった。何だよ、それ。

私は自分の父が、母親(私の祖母)と積極的に原爆の話をしているのを見たことがない。むしろ、うちの父は自分の親と話すことをしようとしてこなかった。なのに、両親が亡くなった今、被爆二世の会なんてのに入ったりしている。彼は一体何がしたいんだろう。

何かの折に、8月6日の話になって、私が当たり前のように、黙祷しないとね、と話したら、友達に、何それ、と言われた。私にとっては当然のように知っている事実なんだけど、こっちの友達からしたら、8月6日が広島原爆の日とは一切結びついていなかった、ということに今更ながら気づかされた。

戦後70年以上経ち、あの時のことを語れる人は減ってきている。私が伝えられることなんて一切ないけれど、私はそれでも広島に生まれて、よかったなと思う。父も母も「被爆二世」だけど何も言わない。多分言いたいことは色々あるんだろうけれど。今となっては、あの時のことを聞こうにも、目の当たりにした祖母も祖父もいない。

3才までしかいなかった広島だけど、私にとってはいつまでもホームタウンだし、私の根っこはそこにある、と思っている。毎年8月6日になるとそれを感じて、少しだけ背筋を伸ばすのだ。

とりとめのない内容になったけれど。

ワダシノブさんが、書かれたnoteにも深く共感する部分がありましたので、以下URLを記載させていただきます。
https://note.mu/shinobuwada/n/nce853b5abcdc

#エッセイ #コラム #広島 #ヒロシマ #原爆 #私のこと #超個人的


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