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「シン・ゴジラ」こそ、劇場で見たい。

庵野秀明監督は、ジブリ人だなと思う。

信念ははっきり示しつつ、ほかもたくさん考える要素を詰め込んで、ほのめかす。だから鑑賞者によって着眼点も解釈も学びも違うし、そこから鑑賞者が自説を披露することでさらに物語世界が広がっていくように仕掛けているんじゃないか。

つまり鑑賞者の立場からいうと、好き勝手言わせてもらう余地が多い映画だと思う。

強引だけどそういうわけで、気になったセリフのことを語らせてもらうことにする。

物語後半で「避難とは住民の生活を根こそぎ奪い去ることだ」と里見総理大臣が語る場面がある。

この台詞を言わせた時点で、庵野監督のすごさが際立つ。監督は、避難の実際をきっと知っているに違いない。人間がその土地で暮らすこと、その意味の重さを知っているんだと思う。

私は避難を経験したことのない人間で、だから実際のことは到底わからない。でも、想像はできる。

状況は全く違うけれど、引越しから避難することの一部を考えてみた。引越しも「暮らし」を一時中断する行為だと思うからだ。

引越しをしてまず何をするか。新しい家に慣れることだ。どこに何を置くか。家具や家電から、洗面所のタオル、石鹸、菜箸やマグカップまで細々と場所を与えていかないといけない。そしてその場所に私達自身を慣らしていかないといけない。

引越しだったら使い慣れたものを持っていけるけど、避難だとおそらくそうはいかない。最低限のものをもって、あとは提供されたものや充分じゃないなかで、生活の全てをイチから組み立てていく必要があるだろう。

ほかにも食料品や日用品を買うにしたって、スーパーや商店がそもそも開いているのか、どこにあって、行き来にどれだけ時間がかかるのか。お店の売り場や取扱いの商品だって違うだろうし、細かいところでポイントカードを作るのか作らないのかとかいちいち考えないといけない。住む、食べるだけでもひと苦労。

そして周囲の人がガラリと変わる。都会だと、慣れ親しんだ、ほどではないことも多いけど、なんとなく顔を知っていたご近所さんや店員さん、駅員さんやホームに並ぶ人。周囲の顔ぶれが変わり生活圏の雰囲気が一変することは、意識に上らないまでも大きなストレスじゃないかと思う。

避難だと、そもそも職場すら変わる可能性もあるのではないだろうか。生活圏に加えて1日の大半を過ごす職場の面子が変わり、彼らとの意思疎通をこなしながら、やるべき事を覚える。想像するだけで脳みそショートしそう。さらに職が得られないとなると、もう言葉では尽くせない。

最後に引越しと避難では比較にならない違いは、避難には「もとには戻れないかもしれない」という恐怖と覚悟があるところだと思う。

引越しであれば本人の意思だろうから、そもそも「もとに戻ること」は意図してない。でも、避難は強制であれ自主的なものであれ、望みもしないのに、むしろずっともとの場所で生きて行きたかっただろう所から離れざるを得ない。思いの詰まった場所からひっぺがされるを得ない。その心のうちは、想像するにあまりある。

ここが里見総理大臣が、ひいては庵野監督が言いたかった「根こそぎ奪い去る」ことだと思う。

生活の外側は、組み立てて慣れれば、なんとかやっていけるかもしれない。でも暮らしの内側、土地や周りにいた人達とのつながりがごっそり消えるという、もはや苦しみとか悔しさとかそんな言葉すら甘い、腹の底から湧き上がる感情はどうだろう。それを抱えて折り合いをつけて生活していかねばならない。いつか癒える日が来るのかとすら思う。

監督が里見に為政者として苦しみを国民に負わせると決めた時にこの台詞を言わせたことは、里見に、彼の為政者の理想像を込めたからかもしれないとも思う。「人が暮らす」ことが、どんな意味を持っているか知っている人にリーダーになってほしい、そんなメッセージが込められている気がしてならない。

とりとめのない文章だし、不勉強なことばかりだと思う。

でも「避難とは住民の生活を根こそぎ奪い去ることだ」と書ける監督と、それを総理大臣に言わせたところが「シン・ゴジラ」で一番突き刺さるところだったので、語らせてもらった。

人によって見方が色々できる面白い映画、ジブリの次は「シン・ゴジラ」も劇場で再上映してほしい。そして皆の話を聞きたい。

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