【新連載】真夜中の森を歩く 5-1

ミツロウの退学が正式に決定した。前田さんはミツロウの話を丁寧に聞き、最後まで高校に行く意義を諭した。しかしミツロウの意思は変わらず、前田さんの誠意もそれを変えることはできなかった。ミツロウの退学を伝える前田さんに父はなにも言わなかったが、その顔には明らかな侮蔑の色が浮かんでいた。

同級生が二年生へと学年を一つ上がると同時にミツロウは社会的に何者かわからない人間になった。学校へは退学の前からほとんど行ってはいなかったが、通学への強制が正式になくなったことは精神的に楽だった。

何者でもないという曖昧性はミツロウにとって心地よく、それはナナちゃんの自由に近づいているという確信をもたらした。毎日の時間を自分の裁量で決めることができ、なにかをしなければならないという強迫観念から解放された。

実際にはなにをするべきか、自分がなにをしたいかなどはまるで思いつかなかったが、その宙吊りになったような感覚は社会的な曖昧性と交じり合い、自分が他の人間とは違うという優越感を与えてくれた。

ミツロウは自分が何者かわからないということに自己のアイデンティティを見出し、他者にとって何者かわからない自分はこの世ならぬ者、天上や異界や黄泉国に住む神々や魔物と同じではないかと思った。ミツロウの中の超越性を志向する傾向はくだらない世間から離脱し、自分が自分でいられる場所を求めていることを表していた。

言葉にすることができない曖昧で高尚で自由な世界。言葉とは世間であり、世間とは父のいる世界だった。ミツロウの志向は父を拒否し、母を求めていた。自分が世間から脱落していくことは母のいる世界に近づくことだった。社会性の拒否こそミツロウにとっての自由だった。

その先達はすぐそばにいた。ナナちゃんこそ母のいる世界に連れて行ってくれる道先案内人だった。ミツロウはナナちゃんに導かれるように有り余る時間を無為に浪費した。時間の浪費は快楽だった。

ミツロウの無為の中で過ごす時間、それは彼にとって母のいる世界へ行きつくための冒険だったが、それはすぐに破綻をきたした。父が高校へ行かなくなったのだからと金をミツロウに渡すことを拒否しはじめたからだ。経済的な問題がミツロウを世間へと押し戻していった。

ミツロウは前田さんに相談し、自分ができる仕事はないか探してもらった。前田さんはあちこちにミツロウを雇ってくれるところはないか聞いて回ってくれた。しかし高校を途中で退学し、とくになんの技術も持たないミツロウを受け入れてくれるところはなかなか見つからなかった。

またナナちゃんと平日の昼間からフラフラと出歩いている彼は不良というレッテルを張られ、それは街の中で大きな噂となっていた。ミツロウの名前を出すとだれもが顔をしかめ「いつも前田さんにはお世話になっているのですが、彼だけはちょっと・・・」と言葉を濁した。それでも前田さんは諦めず、教会に通ってくれる人に根気よくミツロウの心根の優しさを説いて回った。

前田さんのミツロウを思う熱心さは徐々に教会に通う人たちの中に染み込んでいった。そして毎週教会に通っている柴田という夫婦がミツロウを雇うと申し出てくれた。

柴田夫婦は街で小さな電気工事の会社を営んでいた。夫の勲夫が社長として会社を経営し、妻の幸子が経理などの事務を担当していた。従業員が4名おり、どれも若い電気工だった。ビルやアパートなどの工事現場で仮設の分電盤を設営し、そこから配線をするのが主な業務だった。

柴田夫婦は熱心な教会の信者であり、前田さんを心から尊敬していた。夫婦は50代半ばで子供はなく、そのせいか社員の若者をひどくかわいがっていた。社員の4名もそれぞれ問題を抱えている若者だったが柴田夫婦の面倒見の良さで皆、真面目に働いていた。柴田電気の評判は良く、夫婦の人柄のせいか不況の中でも仕事がなくなることはなかった。前田さんは夫婦に感謝の気持ちを伝え、涙を流しながら夫婦の善良さを祝福した。

ミツロウが柴田夫婦に初めて会ったとき柴田勲夫は「きみの家庭環境があまり恵まれたものではないことは知っている、でも前田さんの気持ちがきみを良い方向に向かわせていると信じている。前田さんを裏切ってはいけないよ」と諭した。

その短く刈り上げられた頭髪と大きな体格はミツロウに威圧感を与えたがどこか安心できる雰囲気も持ち合わせていた。妻の幸子の方は小柄で終始ニコニコと笑顔を浮かべていた。

夫婦は善良さこそが美徳と考えているような人種であるとすぐに察せられるたたずまいしており、それは前田さんと同種のものだった。その善良さは教育によってもたらされたというよりは、夫婦が辛く苦い人生の中から経験的に学んだ彼らなりの哲学であるように思われた。柴田勲夫の低くよく響く声には説得力があり、ミツロウはその言葉を真剣に聞き理解しようと努めた。

柴田夫婦との面会があったその翌日からミツロウは電気工見習いとして働きはじめた。先輩について工事現場に行き、そこでケーブルを運んだり配線の補助をしたりした。

はじめての労働は過酷であり、ミツロウはすぐにそこから逃げだしたい衝動に駆られた。ケーブル類は重く、しかもそれを階段で運ばなければならない。各階に配線するFケーブルという灰色のケーブルはまだ持つことができたが、幹線として各階の分電盤を繋げるCVケーブルという黒いケーブルはどれだけ踏ん張っても持ち上げることができなかった。

ミツロウはCVケーブルを引きずるように引っ張りながら階段を一段一段上っていった。ニッパーやスパナの入った腰道具が腰骨に食い込んで痛かった。ヘルメットに覆われた頭から大量の汗が流れ落ち目に入った。階段の踊り場で座り込んでいるミツロウを先輩社員はバカにしたような目で眺め、小さく溜め息を吐いてから「早くしろ」と言った。そのことに怒りを感じはしたがなにも言い返せなかった。頭がぼんやりとして、思考がうまくまとまらなかった。喉が異様に乾き、空気が薄く感じた。ただ「帰りたい、帰りたい」という言葉だけが頭の中を渦巻いていた。それでも柴田夫婦の言葉を思い出し、必死にケーブルを引っ張り続けた。

一か月経つとケーブルの持ち運びも少しずつ楽になってきた。早朝にコンビニでカップラーメンとおにぎりを食べる生活にも慣れ、体を動かす労働の喜びが多少なりとも理解できるようになった。現場に入り腰道具とヘルメットを装着すると誇らしい気持ちになった。

他の建設作業員と一緒にラジオ体操をし、「ご安全に!」と挨拶するとそこにいる全員が戦友のように感じられた。休憩の時のポカリスエットのうまさ、家に帰って入る風呂の爽快さ、布団に入ってすぐに眠りにつける疲労感、そのどれもがミツロウから余計な考えを取り去り、精神が安定していった。風呂から出て自分の身体に筋肉がつきはじめているのを確認するのがなによりの喜びだった。

そしてミツロウをなによりも感動させたのは給料だった。働きはじめてすぐにつくった銀行口座に一か月分の給料が振り込まれていた。通帳に記載された数字を見たとき、これで自分のしたいことが自由にできると喜んだ。もはや自分は子供ではないんだと誇らしく感じた。

ミツロウはその金ですぐに携帯電話を契約した。面倒くさがりながらも父は同意書にサインをくれた。働いていることでミツロウは父に高圧的にでることができた。父はどこか怯えたような表情をしていた。

ミツロウは手に入れた携帯電話ですぐにナナちゃんに電話をした。そしてたどたどしい手つきでナナちゃんの電話番号とメールアドレスを登録した。これでまた一つナナちゃんに近づいた、労働と金と携帯電話はミツロウに大きな自信を与えた。

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