【短編小説】花乃の中学が荒れていたこと 連作14
後輩たちが門出の花道の準備をしている間、式を終えた卒業生は教室で待機する。普通はここで担任から餞別(はなむけ)の言葉があるのだろうけど、洋子先生は教卓の椅子に座りこんだまま、虚ろな目をしているだけだった。噂では四月に転勤するらしい。この学校で六年勤めたのだから定期異動は当たり前だが、これで中学校を辞めるという噂もあった。どちらにしても学校を去ることは確からしい。確か二十八歳。転職なら早い方がいい。向いてなかったよ、先生。というか、この世に中学校の担任ができる人間なんていないんじゃないかと思う。もしこのクラスでアンケートをとったら、将来なりたくない職業のナンバー1は、中学校の先生で間違いない。
洋子先生が着席の合図をかけないので、みんなてんでに席を離れてお喋りをしている。私は自分の席に座って時間がたつのを待っていた。席は窓際だったので、校庭にクラスごとに並ばされる1、2年が見えた。生徒の列が終わると保護者の列。生徒玄関から校庭を突っ切って校門までの花道の両側に、人垣ができつつある。風が冷たそうで、最初に校庭に出された一年生の何人かは、その場で足踏みしている。二年はなかなか並ばない。式で二時間も拘束された開放感に、校庭を駆け回っている。それを先生たちが適当に注意する。時間前に並ばせても、またすぐに追いかけごっこを始めることを先生たちは知っている。だから適当に声かけはするが、強制はしない。卒業生が現れれば、たいしてつながりもないくせに、真っ先に花道に寄ってくるのがああいう連中なのだ。部活なんかで強いつながりのある生徒は、花道の先頭で先輩に渡す色紙や花を握って待ちかまえている。本来、卒業式当日に三年にものを渡すことは禁止なのだが、かといって今取り上げるわけにもいかず、先生たちは見て見ぬ振りをしている。
そう。中学校というところは「見て見ぬ振りの場所」だ。そう思って、自分の机を撫でてみる。この机を来年の新一年生が使うのか。三年間、いろんなことを見てきた机。もし、思いが見えるものなら、ここに座る人間は、さぞかし不快な気分になるだろう。
時計を見る。十二時五分前。何事も段取りどおりに進むのがお好きなこの学校のことだから、廊下整列の放送は十二時きっかりに流れるに違いない。学年当初は五分前行動とあれだけ口やかましく言っていた洋子先生は、きっと放送が流れるまで何も指示しないだろう。指示しても動かないことを洋子先生は知っている。もう誰に何を言っても動かない。生徒を動かしたい時は、洋子先生が近づけばいい。一定距離近づけば、生徒が洋子先生から離れる。それをうまく計算して教室のドアから生徒を追い出すのだ。牧羊犬の動きに似ていると思ったことがある。勿論私たちは羊に例えられるような代物ではないけれど。
「花乃」
呼びかけられて振り返る。上条が立っていた。上条に話しかける人間はこのクラスにいない。誰も関わりになりたくなかった。たぶん上条も私と同じくじっと時間が過ぎるのを待っていた。
「花乃、卒業式のあと、どうすんの」
もうずっと友達のような顔で話しかけてくる。すぐには返答しなかった。
「みんな、どっかお店に集まんじゃと、花乃は行く?」
「行かんよ」
その返事はすぐにできた。声もかからないだろうし、例えかかったとしても行く気なんかさらさらない。
「じゃさ、二人でどっか行かね?」
言ってしまって、後悔したような顔をしている。私はまっすぐ上条の顔を見た。細い、緊張している目があった。
「ええよ」
上条の目が少しだけ緩くなる。
教室を見回した。倣うように、上条もそうする。何が嬉しいのか。何が楽しいのか。何が悲しいのか。興奮が次から次に伝播して、上気したたくさんの顔が見苦しかった。
「じゃ、駅前の喫茶店行こ。先、行ってっから。来いよ、絶対」
上条は、待ってっから、と離れていった。私はまた校庭を見た。そのとき、整列の放送が教室に流れた。
※
上条は私立の鴻巣高校の行くと言った。誰がどこの高校に進学するのかなんか全く興味がなかったが、上条が男子校に進学したのには少し違和感があった。それは言わず向かいの席に座った。
「花乃は?」
「照星高」
上条が私の顔をまじまじ見る。
「附属じゃん。頭、ええな」
「なんで? 上の学校なぞ、ようけあるし」
「俺じゃ入れねえし」
当たり前だ。中学の続きを高校でもしたくない、と言い掛けてやめた。でも、可笑しくて、下を向いて笑う。ロングの髪がさらりと顔にかかった。
「なんだよ」
「上条、普通に話せるんかて思うたから」
顔を上げて、髪をふる。上条はちょっとイラついた顔をしている。
「お前だって普通に話してるじゃね」
ふふ、とまた笑った。ウェイトレスが来た。
「何にする? 俺、コーヒー」
「ジンジャエール」
ウェイトレスが下がる。制服の二人を見ても何も言わなかった。店内を見回す。中学生はいない。誰も私たちには無関心だ。
「おごるよ。俺、誘うたし」
「そういうの、いらんから」
上条とは三年で同じクラスになった。クラス開きの時は隣の席だった。何かにいつもイライラしていた。戦闘的で、隙あらば何かしでかそうとしていた。
やがてウェイトレスがコーヒーとジンジャエールを並べて行く。上条は苦そうにコーヒーを飲んだ。
卒業の時に書いた寄せ書きの言葉を思い出した。
ーーどうでもいい。
上条はそう書いていた。真面目であろうと、ふざけていようと、皆んな何かしらの思いは書いていた。ただ、上条だけが、それを拒否していた。それがカッコいいことでもあるかのように。
「高校に行ったらバイトする」
それこそどうでもいいことを、上条はずっと、喋っている。
「四月になったら、いらっしゃいませえ〜、とか言うてな」
笑う。上条。こんな顔もするのか。教室での、いつも何かに不満そうで、いつも何かに誰かにそれをぶつける不機嫌な姿は、ここにはなかった。
「別人じゃん」
「何が」
「学校の時と別人」
感じたままを言うと、
「別人になんだよ」
と上条は言った。男の子にしては細い、きれいな指だと思った。きれいな爪だと思った。
「高校じゃ、また一年坊だしな。それに、停学とか退学があるからな」
馬鹿な理由だ。
「それでさ、花乃、俺と付き合わねえ?」
そういうことか。そういうことね。成程。男子校に行くんで、そっち方面に手を打っとこうという訳か。何、にやにやしてるんだ。言えば、何でも自分の思い通りになると思ってるのか。私が喜んで、うん、と言うと思っているのか。自信満々。
「付き合わないよ」
ほら、意外そうな顔をした。
「え、じゃ何で来たんだよ」
笑える。不服そうだ。
「知りたかったんだ。こんなクソみたいなヤツが何考えて生きてんのか」
驚いている。それから赤くなって。まさか、そんなことを自分に言う人間がいると、思ってもみなかったんだろう。笑える。
「お前、舐めんなよ」
「別に」
「女だからって、いい気になんなよ」
チラホラいた客がこちらを見る。カウンターの中のマスターが、お静かに、と言った。
「凄んだら、皆んな言うこときくと思ってる? 今日、あんた、誰にも誘われなかったんでしょ。そういうことよ。嫌われてるって気づいてない? 誰ももうあんたとツルむ気ないよ」
上条はチラとカウンターを見る。でっぷりした体格のマスターがこちらを見ている。上条は視線を外して、水を飲んだ。
上条は率先してクラスを荒らした。授業中騒いだり、立ち歩いたり、注意する洋子先生に食ってかかったり、他の先生に暴言吐いたり、物を壊したり、人を殴ったり。親も呼ばれたらしいが、上条はもう親を乗り越えていた。誰が何を言っても治らなかった。暴れて体育の先生に組み敷かれて、大声で叫ぶ様子は、ひたすら獣に似ていた。
そして煙草を吸いながら遅れて登校し、とうとう出席停止となった。しかし、出席停止明けが、さらに酷くなった。上条は自分では何事も起こさず、人にやらせることを覚えた。
3年なのに、クラスは荒れに荒れた。こうなったら、誰もが自分勝手になる。暴れたい奴は暴れて。受験勉強したい奴は、勉強して。保護者の申し入れで、図書室が開放された。勉強したいものは、図書室へ行った。教室はゴミ溜めのようになり、授業は一つも成り立たなくなった。やがて保護者がチームを組んで、見回りにくるようになった。ゴミ溜めのような教室を彼らは綺麗にし、興奮する生徒を宥めて席に座らせた。勝手なことができなくなった上条たちは、徐々に学校に来なくなり、一見教室は静かになった。でも、そこにいるのは、私も含め、自己保身するだけの薄汚れた人間ばかりだった。
最初、荒れ始めた上条に何があったのかは分からない。その頃、きっと同情に値する何かがあったのだろう。でも、そんなこと、私には関係ない。知りたくもない。勿論同情なんてしない。
いったい人はなぜ原因なんて求めるんだろう。起こったことではなくて、それがなぜ起こったかに関心を向けるんだろう。原因が分かれば、悪いことは起きない。本当にそう思っているんだろうか。
原因があれば、人を困らせても、虐めても、殴っても、騙しても、裏切っても、許されるのか。それに、原因っていつもあるものなのだろうか。悪いことをするのが、楽しくて楽しくて仕方ない人間だっているんじゃないだろうか。
わかってる。すると今度はそれは病気のせいになる。原因を探って、それが同情できるものなら、起こしたことはその原因で帳消しになる。原因が同情できないものだったら、起こしたことは、今度は病気のせいにして帳消しになる。
そして、我儘で、自分勝手で、気分屋で、暴力的で、支配的で、意地悪で、声の大きいヤツが、教室でいちばん大きな顔をする。起こしたことは原因や病気のせいで全て許される。
他の人間はただ、ただ時が過ぎるのを待つだけだ。私はそうして、この一年を待った。目の前には、最初にそれを始めた上条がいる。
「すかしてんじゃねえぞ。ちょっと下手に出りゃいい気になりやがって」
何も言わなかった。
「覚えとけよ」
立ち上がった。
「自分の分は払ってよね」
忌々しそうに、金をテーブルに置いて、出て行った。
コーヒーは一口飲んだだけだった。
ゆっくりジンジャエールを飲んで、喫茶店を出る。すぐに向かいの本屋の前に上条がいるのに気づいた。いると思っていたので、別に驚かなかった。
「おめえな」と凄んで近づいてくる。胸ぐら掴まれる。鬱陶しい。すぐに殴れと思う。
「上条!」
声がした。生活指導の桜田先生の声だった。
「やめろ。上条」
走ってきて、手を離そうとする。だが、上条は離さない。
「めんどくせーな。上条」力を入れて、手を捻って放す。「町中で、チンピラかよ」
「ほっとけよ! 俺は卒業したんだよ。オメエら関係ねえだろが!」
「式はな。卒業式は済んだけどな、お前はまだ中学生なんだよ。3月31日までは学籍中学生なの。今、補導されたら、俺が警察に行くの」
上条が桜田を睨む。
「上条。今、警察沙汰起こしたら、鴻巣高校、パァだぞ。問題行動で、入学不許可だ。わかってる? 電話しよか?」
上条の目が泳ぐ。地面に唾を吐いて、歩いて行った。
「先生、どうして?」
私が訊くと、答えてくれた。
「卒業式の後のパトロール。毎年、何かあるのよ。開放感で気が大きくなっちゃって。喧嘩したり酒飲んだり、まあ色々。それで見回りにしてるわけ」
「有難うございました」
頭を下げた。
「もう、理由は聞かないよ。もう学校、来ないしな」
「はい」
「まあ、脅しといたから、大丈夫だろうけどな。3月31日までは、うちの学校の生徒だから、何かあったら、、て、何もできなかったから、信用ねえか」
「いえ」
「照星高校行って、頑張んな。学校生活、楽しんで。ほんとごめん。なんも出来なくて。ごめんな」
頭を下げられた。
「先生」
「なに?」
「洋子先生、辞めるんですか」
先生は答えなかった。
「見回り、まだあるから。気をつけて帰れよ」
と、言って話を止めた。
別れ際、先生は何か言おうとして、その言葉を飲み込んだ。
でも、歩き出して、やっぱり振り返って言った。
「あんな。俺たちも人間なんだ。お前らが傷つくみたいにな、俺ら教師も傷つく。教師はスーパーマンじゃねえんだよ。普通の人間。洋子先生もな。悪ィが、テレビドラマの教師みたいにはいかねえんだよ。悪ィけどな」
そう言って、桜田先生は停めてあった自転車に跨った。
了