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水俣病

「お前も水俣病なの?(笑)」
学生の頃、水俣出身だと言ったら、先輩(イケメン)から半笑いで言われた。
「そんなわけないじゃないですか〜☆」
語尾に☆をつけて、笑いながら返した。
心の中では「イケメンだけど人間としてはクソだな」と思っていた。
(先輩ごめんなさい〜☆)

「熊本のどこから来たの?」
「水俣です」

こう答えるのに、一瞬ためらったり、ドキッとするのは、
県外に出た水俣出身者の誰もが経験することなのではないだろうか。
なぜならそのあとに「聞いて悪かったな」的な空気になる率が高いから。
大抵が「ああ、水俣病の…」と言われるので、
「です。水俣病の」と返すしかない。
あるいは、めっちゃ同情されるパターンもある。
「大変でしたね…!」と握手を求められたりする(苦笑)
普通の市になりてえ…と思った人が、どれだけいるだろう。

冒頭の先輩みたいに、何も知らずに頭空っぽ発言をする人は稀だけれど、
「水俣」というワードは相手に何かしらの反応を引き起こさせる。
それに気づいて以来私は、熊本出身ではなく、水俣出身だと言うことにした。
どう反応するかで、相手がどんな人なのか少しわかる。

「メチル水銀中毒症へ 病名改正を求める!! 水俣市民の会」
(太字部分、正しくは傍点)
こんな看板が市内の国道沿いに立ったのは、今年3月のこと。
字体も文言も、私は好きではないので画像は控えたい。
看板から「やべえ感」が漂っていたので、気にしないようにしていた。
気にしないようにしていたが、前を通るたびにガン見していた。
そして見るたびに、複雑な気持ちになっていた。

4月26日、熊本日日新聞が「水俣病 病名変えて」という見出しの記事を出した。
記事を読んで、看板を立てた人が松本さんという方だと知った。
松本さんは取材に「名前を変えることでどんなマイナスが生じるのか知りたいし、話し合うべきだ。今まで患者・被害者と加害者の争いの中で、市民は取り残され、諦めもあったと思う」と答えていた。(熊本日日新聞、2019年4月26日)
なるほど、松本さんの意見はもっともだ。
もっともだけど、私の違和感は強まった。
そこで、松本さんのお話を聞きに行くことにした。

松本さんとのやりとりを書く前に、そもそも水俣病の病名変更の議論がどのような経緯を辿ってきたのか、ここで提示したい。
その歴史は古く、水俣病公式確認から2年後の1958年の時点で、水俣市議会で議論がなされている。
また、病名変更運動の背景を見ていくと非常に興味深い。
「水俣病センター相思社」がホームページに掲載している『水俣市 その35年』という文書の中に、経緯のまとめが載っているので、ここで一部を引用させていただく。(相思社さん、丁寧な仕事をありがとうございます!)
一番下にある「②まとめ」部分と、私も概ね同じ見解である。

(……)水俣における市民運動の最大の課題は「水俣病の病名変更とチッソの存続」であった。「水俣病」は、その発見当初から様々な名前で呼ばれてきた。
時には不吉で恐怖をともなった存在として、そしてまた差別的な表現が加えられてであった。
「奇病」「伝染病」「水俣奇病」「ヨイヨイ病」「ハイカラ病」「猫おどり病」「月の浦病」と様々である。
新聞紙上でみるかぎり、水俣市のこの病気に対する呼び方は「奇病」であり、市議会の中でもほぼ「奇病」で統一されている。患者への対応や原因究明のために、水俣市や保健所などで作られた委員会も「水俣市奇病対策委員会」であった。
奇病という名称に変化が表れるのは1958年頃である。
この年を前後して水俣市や市議会での呼び方は、「奇病対策」「水俣病総合研究班」「奇病対策費」「水俣病専用病棟」などと揺れ動いた末「水俣病」に落ち着いている。
59年10月15日の熊本日日新聞には「合理性を欠いた病名。病名が風土病的な印象を与えていること。病気を局地化するための政治的取引きの印象も」などをあげて、軽率に病名がつけられたのではないかと批判している(熊本日日新聞、1959年10月15日)。
水俣病の病名は、最終的には1969年の厚生大臣の諮問機関である「公害の影響による疾病に関する検討委員会」で、通常の水銀中毒とは異なる特異な発生経過及び国内外ですでに通用していることなどから、水俣と新潟の水銀中毒症を総称して「水俣病」という名称が適当であるとの見解が示され、定着するようになった。
「水俣病」の名称を変更させるための動きが、どのように始まったかは不明だが、58年12月の水俣市議会で、観光などの立場から地名をとった「水俣病」の名称が問題となっている。
本格的に社会問題として取り上げられていったのは、68年9月29日に開催された水俣市発展市民大会における決議によっている。
水俣市商工会議所会頭を会長として作られた、水俣市発展協議会による大会決議には「公害として認定された段階で、この際水俣病という病名の名称を変えること、いまだに水俣病が発生しているような誤解を解くべく厚生省並びに報道機関に要望する」(「市報みなまた」1968年10月15日号・読売新聞、1968年9月30日)とある。病名変更を訴える市民の運動は、別の機会にも起きている。
環境庁は患者の川本輝夫らから出されていた、熊本・鹿児島県知事に対する行政不服審査請求に対し「影響が否定しえない場合も認定の範囲とする裁決」(「環境庁裁決」環境庁長官、1971年8月7日)を行った。
この裁決を受けて、熊本県知事は審査請求を行っていた被害者も含め16人の認定を行った。患者側は、早速チッソに対して補償交渉を行った。
これに対しチッソは「新認定患者は認定趣旨が違うし資料も不明。中公審に任せたい」と主張し、新たに認定された患者が、それまでの水俣病患者とは異なるとの印象を社会的に与え、被害者をニセ患者とでっちあげる発端を作り出している。
患者側は「これまでの認定患者と何ら変わることはない」と主張しており、現在まで続く行政と被害者との対立の初端ともなっている。環境庁による判断基準の拡大によって、その後認定患者が増加することが予想された。
こうした中で10月20日及び22日には二つの市民グループが、署名運動を開始している。
水俣市民公害対策協議会は「市民の一員として大いに反省しなければならない。凡そ人間の幸福の要件は健康に恵まれ、勤労によって社会に貢献し、生活の安定を得ることにあると思う。従って水俣病患者とその家族にとって、真に望ましい事は充分な研究と治療と看護により、健康度を高め適当な職業を与え、可能な限り生甲斐を持たしめると共に、患者家族についても国の施策を講ずべきであろう。水俣市に起こった公害は、水俣市民の総意を持って対処することが自然の理である。重症者への治療と手厚い看護。軽度、中度の患者には心身の状況に合わせた仕事を。本市水俣病患者の経済的並びに精神的安定をはかるために、チッソにおいても早期解決に誠意を持って処置されるよう。またなるべく早期に海底の浄化を計るよう関係各方面に働きかける」としている(「趣意書」水俣市民公害対策協議会、1971年10月)。
またもう一方の市民グループは「水俣病の解決なくして、明日の水俣の繁栄はあり得ないと、切実な気持ちを抱いております。先頃環境庁から裁決されました患者を広く速やかに救済する救済法の精神につきましては、なんら異議を差し挟むものではありませんが、審査と認定の分離により、認定要件に明確さを欠き、企業と認定患者の両者間において著しい混迷を生じております。更に現在実施中の潜在患者の調査により、認定患者が大幅に増加しました場合、以上の点を明確にしない限り、補償問題をめぐり大きな社会不安を醸成する事態が憂慮されます」(「要望書」 徳富昌文他、1971年10月21日)と述べている。そして国による患者のランク付け、ヘドロ除去、病名変更、患者収容施設への援助、患者家族の授産施設設立、などの要望を行うとしている。
これに対し患者側は「患者と会ってじっくり話を聞いたことがありますか。病名が変わったらそんなに明るく楽しくなるものでしょうか」(「公開質問状」石田泉他、1971年10月28日)などの反論や抗議を行っている。連日双方の主張を示したビラが、大量に水俣市内に配布されるところとなった。
患者側は一律3000万円の要求を行いハンガーストライキに入るなど、運動は昂揚してきた。
水俣市民有志による「組織も力もない私達市民の立場も考えてください」(市民有志一同、1971年11月7日)「署名(市民運動)に協力してどこが悪いと言うのか」(市民有志一同、1971年11月6日)「三千万円要求の根拠を明確にして下さい」(市民有志一同、1971年11月11日)などのビラが配布され、双方の対立は深いものとなっていった。
二つの市民グループは、水俣市長の仲介によって統一され、11月14日には「水俣を明るくする市民大会」が2000人の市民を集めて開催されている。
市民大会では2万7000人の署名が集まったことが報告され「水俣病補償問題の早期解決に誠意をもって努力するよう、当事者に要望する。患者が安心して治療に専念できるよう、あらゆる施策を取るよう要請する。水俣湾の水銀ヘドロの埋め立て及び港湾整備。病名を変更し市のイメージアップをはかるよう訴える。市の経済基盤を確固たるものとするため、現在水俣市にある事業の充実を。新規事業を誘致し、過疎化現象を防ぎ、市の発展をはかろう」(「活動方針」水俣を明るくする市民連絡協議会、1971年1月14日)との活動方針を採択している。
この日水俣病市民会議の呼びかけに応じて、熊本市をはじめ東京、大阪などから500人がチッソ水俣工場前に集まり、正門前に座り込んでいる患者の激励集会がもたれている。二つの集会(熊本日日新聞、1971年11月15日)は、水俣病を中心として互いに対立する市民を端的に表している。
また71年12月20日には水俣市議会でも意見書が採択され「紛争は容易に解決できにくい状況であり、双方とも誠意をもって当事者が解決に当たるのは当然であるが、いたずらに紛争を遷延することは当市議会として拱手することは忍びず、よって中央公害審査委員会の調停による等、公的機関の手により早期円満解決を見るようご処置を賜りたく」としており、被害者と加害者の双方に誠意を求めているところに、大きな特徴が表されている。
72年3月2日には大石環境庁長官が水俣を訪れている。長官の訪問を出迎えた市民が持つプラカードには「水俣病の病名は市民侮辱だ」「水俣病は風土病ではない」「明るい水俣こそ市民の願い」「水俣病を改名せよ」(「機関紙・告発」水俣病を告発する会、1972年3月25日号)などが書かれていた。
73年3月には熊本地方裁判所から、裁判の判決が示された。判決に向けて市長の談話が発表されている。市長は「今日の判決は水俣病にとって一つの区切りをつけたものと思います。この新しい転機に立った今日、全市民が心を一つにして、水俣病の諸対策に献身的に当たり、一日も早く円満解決のメドを立て、市の明るいイメージを回復するとともに、公害の原点という汚名を返上したいと思います」(「市報みなまた」1973年4月1日号)としている。
水俣市民による病名変更の願いは強く、その後も様々な方法で続けられている。
市報の見出しにも「『水俣病』病名変更を全市民の署名運動へ」とある。市報によれば「市長は議会からの質問に答え(水俣病の病名変更の必要性については)まったく同感である。今日、市のイメージだけの問題ではなくなっており、市民に対する差別問題にまで発展している。また、産業経済面でも障害をきたしている。早急に、良識ある市民運動として、病名変更の署名運動などを実施したい。6月22日当市で開かれました県下商工会議所議員大会の席上、この病名変更が緊急動議として提案され満場一致で採決されました」(「市報みなまた」1973年7月1日号)として、病名変更のための全市民の署名運動を呼びかけている。
8月の市報にも水俣病の病名変更のための署名運動が提起されており要望事項には「水俣病を適切な病名に改称してください」(「市報みなまた」1973年8月1日・15日合併号)とある。また9月の市報には「水俣病名改称のための実態調査にご協力ください」と、就職がだめになった、結婚が不調になったなど、不快な思いをした経験などを求めている。
9月15日付けの市報には、病名についての署名運動の結果が報告されている。それによれば「有権者の25,290人に対し18,251人で72%に達しました。県も来年度の政府に対する再重点要望事項にとりあげており、今後、県市あげての強力な運動に展開できるものと期待されます」(「市報みなまた」1973年9月15日号)としている。
また県の委託にもとづいて水俣病のイメージにより、市民が結婚や就職などに不利益な差別をうけていないかの実態調査も実施している。アンケート結果によれば「14.3%の市民が、水俣市民であることを隠したことがある。また0.3%の市民が、自分の子供の結婚が破談になった」(「市報みなまた」1973年10月15日号)としている。水俣最大の祭りと言える「みなとまつり」でも、病名変更の大横断幕を先頭に行進している。(「市報みなまた」1973年8月1日・5日合併号)集められた「水俣病の病名変更を求める署名」(「水俣病の病名改称等に関する陳情書」水俣市長外1万8326名、1973年10月)は、日本神経学会などにも届けられ陳情された。以上のように病名変更は、いつの時代においても水俣市民あげての重要課題であった。

②まとめ
水俣病事件が人口を減少させ、市民に対しての差別を生み出している。
ひいては水俣市にとっての経済的な振興を妨げている。
県外に出掛けていったら「あの水俣病の水俣ね」と言われた。
故郷を誇りに思えないことの寂しさ。
だから水俣という町の名前を消して、そのことに触れないで生きていきたいという市民感情がある。病名変更についての最大の問題は、事件の節目ごとに作られる市民組織が、まったくと言ってよいほどチッソの責任や、水俣にチッソがあることのマイナスを挙げていないことにつきる。そして、どこかでチッソと被害者は同列に位置付けられており、補償問題に際しても「チッソも患者も良識を持って」交渉に臨むことが要請されている。
こうした点は一歩水俣から離れ「水俣にとって大事なチッソ」との視点が薄らぐと、加害者と被害者を対等に位置付ける論議は、非常に異質なものとして見えて来る。昨今「市民も被害者」との主張をよく耳にするが、この主張も一歩誤ると「だから市民も被害者も、共に我慢しあおう」との主張となってしまう危惧がある。
水俣病の病名変更は、水俣病事件が様々な節目に出会うとき、いつも市民運動の旗手として登場して来た。
被害者自身にとって「町の発展のために病名変更を」の主張は「おまえら被害者がいなくなれば・・・町の発展が」と聞こえることを、市民が気がつかないかぎり今後も再燃することは間違いない大きな課題である。

(一般社団法人水俣病センター相思社ホームページ
「水俣市の35年」http://www.soshisha.org/jp/35years_minamata
より引用、2019年6月23日時点)

この文書で予測しているように、病名変更運動は再燃した。
松本さんの運動はホームページでも発信されている。
当初、私は看板を冷めた目で見ていた。正直「時代錯誤だ」と思ったからだ。
これを見て傷つく人もいるだろうから、大げさに報道しないでほしいなと思った。
けれど、熊本日日新聞は紙幅を割いてこの運動を報道した。
熊日はどのような立場でこの記事を書いたのだろうと、疑問に思った。

その後調べる中で、この看板を設置した松本孝二さんは、お父様の代から病名変更運動をされていたことを知った。
松本さんのお父様は、元水俣市議の松本充さん。
市議会議員を9期務め、任期中に当時の市長である浮池正基さんらと病名改正運動を積極的に行っている。1973年の病名変更運動の当事者であった。
当時の厚生省へ陳情も行なったが、たらい回しにされた挙句、議論は立ち消えになってしまった。(ということは、孝二さんのお話を聞いた際に知った)
父親ができなかったことを自身の課題として受け止め、行動を起こそうとしている姿に、親近感を持った。
ベクトルは違うが、私と似ているのではないだろうかと思った。
だからこそ、話を聞きたくなった。

初めてお会いした松本さんは、いきなり現れた私をにこやかに迎え入れてくれた。
(その節は本当にありがとうございました。お茶、ご馳走様でした。)
1時間半ほど、松本さんと議論とも言えない議論をした。
話しながら懸命に理性を働かせようとしたのだが、私には無理だった。
松本さんは興奮すると声が大きくなる。(悪気はないが、理論的に話そうとするとそうなってしまうとのこと)
机を叩きながら話すので、ドキッとする。
「声を大きくしなくてもおっしゃりたいことはわかりますから、頼むからトーンを落としてください」と何度もお願いしたが、変わらなかったので、
「怒鳴るなと言っているだろうがーーーー!!!」と叫んでしまった(笑)
そこからは私がキレっぱなしだったので、本当に失礼なことをしたと反省している(松本さん、ごめんなさい…)し、自分の怒鳴り方が父にそっくりすぎて、怒鳴りながら自分に引きました…父のようにはなるまいと思っていたのに…

思い切り話が逸れた。松本さんの論点を整理すると、
・医学的にメチル水銀中毒症と呼ぶのが正しい
・「水俣病」という病名のせいで水俣市民への風評被害が現在も続いているので、水俣市民が力を合わせて病名改正するべき
・メチル水銀被害は世界的な問題なのに、「水俣病」という名称では問題を矮小化している
の三点に集約されるだろう。(松本さん、違っていたらご指摘ください)
そして、これは私の印象でしかないが、『聖バーソロミュー病院1865年の症候群』や『メチル水銀を水俣湾に流す』の著者、入口紀男先生の主張(主に第5章の14)の影響を多分に受けておられるように感じた。
逆に言うと、それ以外の視点がほとんど松本さんの論点には含まれていなかったように思う。

私が一番疑問に思うのは、松本さんが水俣病患者被害者との交流がないこと。
病名変更で最も影響を受けるのは当事者だ。
なのに、当事者と話をせずに議論を展開するのはおかしい。
しかも、風評被害を訴えておられながら、ご自身が風評被害に遭われたことはないと言う。これは一体、どう考えれば良いのか…
誰のための、何のための病名変更なのだろう。
議論の中でふと、「もしかして松本さんは現在の認定制度に異を唱えるためにメチル水銀中毒症への改正を訴えておられるのか…?」とも思った。
つまり、水俣病の認定基準が厳しすぎるから、本来であれば救われるべきメチル水銀中毒症患者が切り捨てられていることへの異議申立てなのか?と。
普通の病気であればお医者さんが病名の診断を下すが、水俣病は違う。
「自分は水俣病なのではないか」と疑問を持った人が、お医者さんの診断を受けて、その検査所見を持って県の認定審査会に水俣病の認定申請を行い、さらに細かな検査を行ったのちに認定審査会で審査され、その審査結果を持って県知事が水俣病かどうかを判断する。
水俣病が公害であるからこそ、通常の医学的な判断が下されない。社会的な病だ。
松本さんがやりたいのは、その制度への挑戦なのか…?
でも、たぶん違う。
そう考えている人は「患者がいまだにチッソに対してワーワー騒いでる」とか、
「チッソもまた被害者だ」とか、言わない。(「あ、こういうこと言う人、まだいるんだ…」と思いました)
松本さんの言葉の端々に、患者被害者側への理解不足と、偏見を感じた。
だからこそ、もっと知ってほしいと思った。

「松本さんの中で時間が止まっている」というのが、松本さんと話をした私の率直な感想だ。松本さんは現在の水俣を見ていないと感じた。
水俣市民は諦めているとか、逃げていると言われたけれど、ほんとに心外だ。
少なくとも私の周りの同世代の人たちは、水俣病のことを声高に叫ばなくとも、それぞれに水俣病に向き合って、それぞれにそこから価値を見出している。
自分の暮らし方を考え、持続可能で環境負荷の少ない生き方を考え、それを仕事にも反映させている。より良い水俣を作ろうとしている。
過去を見つめながらも、未来を作っていこうとしている。
そしてそれは同時にできることなんだと、私は実感している。
水俣に生まれて本当に良かったと、水俣病を学んでようやく思えるようになった。
まだまだ理解は不足しているけれども、人々が水俣で水俣病とともに生きてきた軌跡をたどると、人間の影も光も色濃く見ることができて、だからこそ人間って面白いし、水俣はなんて豊かな場所なんだろうと思う。

たぶん、松本さんは私のこの記事を読んで下さるだろうから、願いを込めてここに書く。
どうか、今の水俣を見つめてほしい。同時に、史実をもっと学んでほしい。
今現在も、どうして被害者が裁判で闘わなければいけないのかを考えてほしい。
患者さんに会って、話を聞いてほしい。
その際に、自分が発する言葉で相手が傷つかないだろうかと考えてほしい。
そうやって対話を重ねた上で、改めてどのような主張をするのかを考えてほしい。

その後、熊日は「『水俣病』呼称読み解く」という連載記事を掲載している。
熊本保健科学大の向井先生や、熊本学園大の花田先生、語り部の会の緒方正実さん、そして再び「水俣市民の会」の松本孝二さんの意見を取り上げた。これからも、もう少し続くようだ。
議論を深めるために連載という形をとってくれたことはありがたかった。
けれどやっぱり、最終的に熊日がどういう立場をとるのかをきちんと示すべきだと思う。
同じ水俣病病名変更に関する記事でも、西日本新聞は「論考」という形で掲載した。
「(……)不条理に肉親を奪われ、自らも深刻な健康被害を受けてなお、地域で冷ややかな扱いを受けてきた人たちにとっての『水俣病』。風評被害を理由に声を上げる人たちとは、思いの深さ、強さが違いすぎる。」(西日本新聞、2019年6月4日)
表現が強いな…とは思ったけれど、病名変更については中立では書けないという気概を感じた。
私が記者だったら同じように、論考を書くのではないかと思う。

最後に、最初の話に戻ろう。
「お前も水俣病なの?」と聞かれたとき、
私は水俣病じゃないし、家族にも水俣病患者はいないのに、以前の私はドキッとしていた。笑ってごまかすしかなかった。
それは、水俣病というものをタブー視してたし、語ることを恐れていたし、なにより知識がなかったからだ。
で、当事者でない私ですらそうなのに、例えば患者だったり、患者の家族だった場合はどうなのだろうか?と考えると、恐ろしくなる。
怖いだろうなと思う。悲しいだろうなとも思う。
言葉が出ないと思う。彼らも笑ってごまかすだろうか。
そういった複雑さを理解しない相手に問題があるのに、そう聞かれることを恐れたり恥じたりする自分を、責めておられるのではないだろうかと思う。
だから「水俣病の名前を変えてほしい」と願う患者さんの気持ちもわかる。
家族の気持ちもわかる。
わかると言ったら失礼かもしれないし、本当のところはわからないんだけど…
現実的には変えることがほとんど不可能な病名変更の議論を、彼らがどのように受け止めておられるのかを理解していきたい。
そして私たちの次の代、その次の代にはその苦しみが薄れていくような教育と、知識の共有がなされていくことを、そのような動きができるよう自分自身が努力していきたい。

言うは易し、行うは難し、長谷川きよし。

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