4189を暗証番号にする人について
女は思った。
2018年も今日で終わりだわ、と。
年末のパリはいつになく騒がしかった。
11月から毎週土曜に、ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト運動)という燃料税の引き上げに対する抗議運動が行われていた。あのルイ・ヴィトン本店にも落書きがされてしまったとか、しないとか。
2018年12月31日。大晦日である今日は月曜日。デモはないけれど、女の周りはこれから騒がしくなる予定だ。
ベテラン看護師の採血のように正確に、時計の針が朝9時を指した。
☐■☐
あー。あー。あー。
走ってる。走ってるぅ。
この館のなかは走ってはダメよ。
女の前に駆け寄る烏合の衆に、女は冷静につっこむ。毎朝9時になると、いつもこうだ。まるで東京メトロ銀座線の満員電車のよう(乗ったことないけど)。
もう100年以上、ここにいる。
連れ去られたこともある。酸を浴びせられたこともある。投石されたこともある。赤いスプレーを吹きかけられそうになったこともある。土産物のコップを投げつけられたこともある。
人々が群がってくるくらい、なんのその。
むしろ関心を持ってくれることに感謝したい。しゃんとした姿勢で受けとめよう。
辞書のように分厚い防弾ガラスの奥で、女は世界でいちばん有名な微笑を浮かべた。
☐■☐
観光芸術。
時に女の頭には、この言葉が浮かぶ。
この館、そう、ルーヴル美術館は世界的に有名すぎる。ゆえに、行ったという事実だけで人生に大きな価値を与えられる。
芸術作品に心を奪われようが、するするっと横目に観ていただけであろうが、どちらであろうが。
「ルーヴルに行ってきた」という魔法のひとこと。人々から「まぁ、素敵」という好反応を引き出すひとこと。
来てくれただけで有り難いという思いも、確かにある。けれど。
私はパンダなのか。コアラなのか。いや、モナ・リザだ。
☐■☐
~ここで豆知識コーナー~
モナ・リザのモデルは、フィレンツェの裕福な絹商人の夫人 リザ・デル・ジョコンド。息子が生まれた記念に、夫がリザの肖像画をレオナルドに依頼したと考えられている。
その微笑みは、美と徳のある性格を表現しながらも、貧しい家から裕福な家へと嫁いだリザの喜びを表しているのではないか。
(……というようなことが、高校生のときに読んだ美術書に書いてあった。いま調べた限り、モデルはリザの説が有力。微笑みの理由は謎に包まれている。)
☐■☐
あ、アジア人。
女の前の人だかりに、ふたりの小柄なアジア人女性がやってきた(たぶん日本人だ)。
女から向かって右側におり、「9時の開館ぴったりに来て、モナ・リザ一番乗りしようと思ってたのに、のんびりしてたら出遅れちゃってこんな人混みのなかで観ることになっちゃった……。しまったわ……。舐めてたわモナ・リザ人気……」とでも言いたげな顔をし、カメラ付きスマホも出さずに、ぼうっと立ち尽くしている。
女の美しさに見入っているのだ。
女は目を合わせなかった。
立ち尽くし尽くすと、彼女たちは群れを出ていった。そうして数分後、先ほどとは逆の左側に現れた。どうやら、あらゆる角度から女を堪能しようとしているらしい。最後には、正面から現れた。
しかと女を見つめたあと、ちらと作品キャプションを見ると「モナ・リザのオーディオガイドのナンバーって4189なんだ。これを銀行とかの暗証番号に設定してる人がいたら、筋金入りの美術ファンな感じがしてかっこいいね」というような顔をし、満足げに名作天国であるルーヴル美術館の他フロアへ吸い込まれていった。
☐■☐
ベテラン看護師が再び華麗に採血するかのように、時計の針が夜6時を指す。ルーヴル美術館が閉まる時間だ。
あと6時間で2018年も幕を閉じる。
緞帳が床についた瞬間、またすぐにさぁと上がり、新しい年がお目見えする。
ここで出会った人々よ。
おなじ時代を生きる世界中の人々よ。
新しい年も、その先の年も、さらに先の年も。
どうか皆、健やかでありますように。
どうか皆、少しでも心穏やかでありますように。
どうか皆、人にも自分にもやさしくいれますように。
じっと祈ることしかできないけれど、祈った。
また、会いましょう。
☐■☐
フランス・パリ
ルーブル美術館【臨時閉館中】
※2020年4月17日現在
☐■☐
This note is
03|パリの美術館めぐり旅 2日目 - 2018.12.31|
つづく
※急に文章のテイストを変えちゃいましたが、本作は下記のつづきになります。
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