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サックスと五十肩

もしタイムマシンがあって、若い頃の自分に会えるとしたら何をアドバイスするか。私なら木の影からそっと様子を見るだけで声もかけないだろう。話しかけてもこのおっさんの言うことなんてどうせ聞かないだろうし、人生に多少の悔いはつきものだし、人間なんて結果オーライの単純な生き物だから、アドバイスなんて別に要らない。それでも敢えてと言うのなら「怪我に気をつけろ」だろうか。

それぐらい今回の五十肩はキツかった。サックス奏者を30年以上もやっていると当然時には身体が悲鳴を上げる。これまでに顎関節症や自然気胸、腱鞘炎などを患って、一時的に演奏活動を停止せざるを得ない事はあったけど、今回が一番影響が大きく、治るまでの時間も長かった。勿論、年齢のせいもあるだろう。

結論から言うと、現時点つまり99%治る(まだ手が一部届かないが殆ど困らない状態になる)までに約10ヶ月かかった。理学療法(physical therapy)に通うのが一般的らしいけれど、私の場合は鍼治療を選択。フィジカルセラピーを選ばなかった理由は2つ。彼らの動画が私には全く役に立たなかったのと、町医者が余りにも多くてどれが良いのか分からなかったこと。それで、以前、腱鞘炎をやった時に効果のあった鍼を選んだ。尤も鍼を始めたのは8ヶ月目だったので、もっと早く始めていればこんなに長いこと苦しまずに済んだだろう。それでも週一回、計13回のセッションで暗くて長いトンネルを出られたのはラッキーだったと思う。一年以上はかかると覚悟していたから。

なんで、そんなに長いこと放置したかと言うと、検索結果に「早い人は半年で治る」とあったので、自分の回復力に期待してしまったからと言うのが一つ。もう一つは、どのサイトを見ても「原因はよく分からない」、「40〜50歳ぐらいに多い」としかなく、私はこういう時に医者を信用しない癖がついているのだ。アトピー性皮膚炎や自然気胸で苦しんだ時、痒み止めや痛み止めを処方するだけの医者に懲りて、彼等を信用しなくなったのである。

そういう訳で原因は自分で推測するしかないけれど、まず間違いなく、ソプラノサックスの吹きすぎだろうと思う。2020年にコロナ禍が始まったNYでは、演奏の仕事は屋外に限定されて、それは冬もずっと続いたので、いくらテントの中に電気ヒーターを入れたところで、コートにマフラーまで必要な寒さの中で演奏し続けたのはまずかった。特に、真っ直ぐな形のソプラノサックスは、楽器を右腕で持ち上げた状態で指を動かし続けるので、演奏後は腕がパンパンに腫れることも多い。使い過ぎで硬くなった腕と首の筋肉が肩を引っ張って関節にダメージを与えたのではないかと思う。

2021年。年が明けて直ぐに肩の異変に気がついたものの、直ぐには症状が悪化しなかったこと、休めばそれなりに回復したこと、そもそも3回目のNY生活を始める時に「もう後はNYに行って音楽をやって死ぬだけ」と決めていたせいで、演奏による疲れに対してロクなケアをしなかったことも悪い結果を生んだ。身から出た錆なのは分かっていて、誰も責められない、責めるのは自分と一人で悩んでしまったのも今考えれば良くなかった。

そんな身体もギリギリの状態の中で、ソプラノサックスが遂に壊れた。

渡米前の約一年半、ヨーロッパやアメリカ大陸を放浪した時に、まともな手入れができなくて瞬間接着剤などによる応急処置で凌いだ為、楽器がかなり悪い状態になっていたのだが、NYに引っ越してからもNYの楽器修理は日本の倍ぐらいするのでメンテを躊躇っていた。一時帰国するまでなんとかもってくれと願っていたが、ある日、変形した折り畳み傘の柄を何気なく直そうとして逆に折ってしまい、その夜は夢の中でソプラノサックスを両手で真っ二つに折ってしまった。これはお告げだ。これ以上自分で直そうとするとロクなことがないと修理を決断。4月中旬にソプラノを修理屋に預け、私の手元にはテナーサックスとフルートとバスクラリネットが残った。演奏の仕事はサックスがメインなので、私はこうして初めてテナーサックス奏者になった。

この頃、肩の状態は一進一退だったが、痛みも少なく、動きも悪くなかったので、半年で治る期待はまだ捨てていなかった。テナーサックスを演奏する事による肩への影響は少なかったと思う。楽器自体はソプラノより重いが、ハーネスで吊り下げると右腕にも右肩にも殆ど負担がなかったからだ。小さいソプラノの方が負担が大きいとは何とも皮肉だが、更に小さいフルートで腱鞘炎をやったこともある。楽器という物は実は小さいほど危険なのかもしれない。

ソプラノサックスの修理には4〜6週間ぐらいかかると言われていて、楽器が戻ってくるまでに肩が治れば丁度いい。屋内の仕事は依然として少ないが、夏には公園などでも吹けるからそれに間に合うだろうと私は楽観的だった。

ところが、6週間を過ぎても楽器屋から連絡はなく、しかも肩の状態が急激に悪化した。右腕が上がらなくて着替えも困難になり、夜は痛みで眠れなくなった。痛みがない時も寝返りは打てないのでなかなか眠りにつけない。寝不足のためほぼ鬱状態に突入。

そして発症から半年が経過。半年で治る早いパターンでない事はもう明らかだったが、自分は長くて2年かかる方のパターンかもしれないとパニックに陥った。あんなに苦労して取得したアーティストビザも残り8ヶ月。この状態でただビザが切れるのを待つことしか出来ないのか?その次のビザを申請しても果たして取れるのか?取れたとしても1年はソプラノを吹けずに無駄にするのか?

ソプラノサックスは予定をオーバーして2ヶ月後に戻ってきた。楽器は生まれ変わったかのように素晴らしいコンディションで、高いお金を払うだけの価値はあったと思う。30年前にこの楽器を新品で買った時の興奮を私は思い出した。あの時、私はまだ大学2年生だった。そして気がついた。

30年物のこのソプラノサックスよりも、更にヴィンテージ物なのは49年物の自分の身体だという事を。

楽器は2ヶ月で直ったが、私は未だ治っていない。サックス愛好家がヴィンテージ物に金を惜しまないように、私はこの身体をもっと大切にして必要な"修理"にお金をケチってはいけないと猛省した。何しろ買い替えは利かないのである(少なくともまだ今のところは)。

そんな事を考えた時、ふと、昔読んだ本に出てきたイラストを私は思い出した。それはかつて歯の矯正をした時に読んだ歯医者さんの書いた本で、その歯医者は管楽器奏者を専門に診るという特殊な医者だった。

イラストにはトランペットを吹く人が描かれている。そして、トランペットには「楽器A」、人間には「楽器B」と書かれ、今まさしく音が出ようとする楽器Aと楽器Bは、トランペットのマウスピースと人間の唇、そしてマウスピースを押し当てる事で間接的に歯と繋がっている。管楽器奏者にとって如何に歯が大事であるかを訴えるイラストだったわけだが、私は人間の体を楽器Bと呼んでいる事に興味を覚えた。

同じ楽器でも吹く人が違うと全く異なる音がするのは、単に楽器Aをどう演奏しているかの違いではなく、演者、つまり楽器B自体の性質が音になって現れると私は考える。逆に同じ人が種類の違う幾つかの楽器を吹けば、確かにそれぞれの楽器の音がするが、その人らしい音という共通部分も必ず現れる。我々が普段楽器と呼んでいるもの(楽器A)はアンプやエフェクターに過ぎず、本当の楽器は身体(楽器B)であり、楽器Bが音を決めていると考えるほうが理に適っていると思う。

楽器Bが壊れた状態で楽器Aを演奏しても良い音は出ない。そう確信した私は、演奏活動を最小限まで減らした。治療に専念するなら完全オフが必要とも思ったが、NYで音楽の全く無い生活は逆に精神的に良くないと判断。自宅での練習は継続。演奏活動は2日続けてやらないと言うルールを決めた。得手してこういうルールを定めた時に限って既に決まっているギグの前日や翌日に仕事の依頼が来るものだが、仕方がない。この夏は大分演奏の機会を失ったが、全ては楽器Bの為である。決して怠けているわけではない。

鍼に通い始めて気がついた事は、身体は全て繋がっていると言うことだ。言葉にすると当たり前すぎるが、鍼を打って前腕や肩周りの三角筋、首の筋肉などの凝りを実際に感じるとなるほどと思う。7ヶ月も放っておいた筋肉をほぐすのには何週間もかかったが、ほぐれはじめるとそれまでやっても無駄だと思っていたストレッチが効き目を表し始め、段々と腕が上がるようになった。

五十肩の問題は肩そのものにあったのではないと思う。肩は寧ろ被害者だったのだ。悪さをしていたのが肩を引っ張っている周囲の筋肉、首や腕、背中の筋肉だと分かると、私はネットに上がっている五十肩関連の動画に限らず、もともと硬い体を少しでも柔らかく出来そうなストレッチ方法を探し始めた。

特に効果が大きかったのはギタリストが紹介している指のストレッチだ。
Essential Hand Stretches For Guitarists or Any Instrumentalist
https://m.youtube.com/watch?v=TSrfB7JIzxY

こちらの五十肩ストレッチは指を酷使するミュージシャンにはとても効くと思う。
Frozen Shoulder Exercises V2 - Adhesive Capsulitis - Calcific Tendonitis - Shoulder Stiffness
https://m.youtube.com/watch?v=5E5HsulA2jo

鍼治療の時にいつも凝りが激しいのが首だったので、首のストレッチも念入りに行う事にした。
【ガチガチの首コリ】ガチガチに凝り固まった首の筋肉をほぐす「首ストレッチ」【大分市 腰痛治療家 GENRYU ( 安部元隆 )】
https://m.youtube.com/watch?v=-257IP069Zw

だが、原因を取り除かなければ何度治してもまた問題は起きる。どうしてこんなに首が凝るのだろうかと考えて、私はようやくその答えを見つけた。原因はストラップだった。

ソプラノサックスは持ち上げて吹く楽器なので、ぶら下げる為のストラップはほぼ意味がない。従って以前は使っていなかったのだが、自分のソロが終わった時など、楽器を吹かない時、つまり他の人のソロのあいだ手でずっと持っていると疲れるので、それでストラップにぶら下げるようにした。そのうち、演奏時も腕が疲れるのでストラップを短めにして、腕と首の両方で楽器の重さを支えるようにしていたのだが、この時にどうしても首がしまり、それで首が凝っていたと言う訳だ。ストラップは今も念の為使っているが、首への負担を気にしながら使うようにフォームを変えた。肩は前に出さず、胸を張り、できるだけ右手の親指の近くにソプラノサックスの重心が来るように角度を調整して負担を和らげる。

現在、右腕は元の高さまで上がるようになった。真横に上げる時にはまだ肩甲骨周辺の筋肉が突っ張るので更なるストレッチが必要だろう。腰に手を当てる動きと背中に掌を当てる動きにはまだ問題があり、悪さをしているのは三角筋と大胸筋らしい。

大胸筋のストレッチは鍼師さんに教わった方法だが、下の動画がそれに近いと思う。
【ストレッチ】大胸筋(だいきょうきん)・上腕二頭筋(じょうわんにとうきん)
https://m.youtube.com/watch?v=YTD-UjvDwA4
私の場合はこの動画と異なり、肘は真っ直ぐ伸ばして壁に当てる手の高さを腰より低い位置からスタートして数センチずつあげて繰り返すと言う事をやっている。

気がつけば2021年ももうすぐ終わり。医者嫌いと自滅的なライフスタイルの為に今年はかなり痛い思いをした。もっと自分を大事にしていたら、もっと早く周囲に助けを求めていたら、もっと早く現実を受け入れていたらと思う事は沢山あるが、つまらなさ過ぎる現実を捨てて空想の世界に生きようとアーティストに戻った私には、どのみち避けようがなかったのでは無いかと思う。

幸い、楽器Bというコンセプトを思い出すことができたおかげで、音楽性にも変化が出てきたように思う。よくミュージシャン同士では、良い演奏は無我の境地だとか、ゾーンに入るとか、まるで幽体離脱のように体が自動演奏をして自分はそれを眺めているだけとか、自分が音楽を奏でるのではなく音楽が自分を奏でるなどと言うような様々な表現をするが、楽器Aを奏でる前にまず楽器Bから良い音がでる準備をすることが、上手くいく秘訣のような気がする。

例えば、ある偉大なミュージシャンの演奏をコピーしても偉大さまではコピーできないことが殆どだが、それもコピーしているのが楽器Aだけだからと考えると説明がつく。個人的にはコピーは嫌いなので自分自身のやり方をこれまで模索してきたが、エゴが強すぎて崩壊することが多かったのも、楽器Bは完成していると言う驕りがあった為かもしれない。楽器Aの音の良さとか、音の数とか、音の並びや速度を変えて色々試してきたが、一度壊れて再構築が始まった楽器Bで何ができるか考えることで、音楽への新たなアプローチが始まった気がする。

また、ソプラノを休んでいる間にテナーサックス奏者としての自信が付いたのも良かった。単純にソプラノより1オクターブ低いだけという浅い理解から、テナーでこそ良さが出るレパートリーの吹き方も学んだし、何より想像以上に周囲の評価が高く、全然テナーサックス奏者でもいけると言うことが分かったのは良かった。

そう考えるとこの10ヶ月はかなりキツい試練ではあったけれど、得たことも大きかったと思う。五十肩を知らずに突っ走り続けるより、一度止まって良かったのかも知れない。だから、もしタイムマシンに乗ったとしても、やっぱり若い頃の自分には声をかけずに帰ってくる気がする。

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