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答えは本人の中に「ない」と思う理由

こんにちは。

2021年が始まり、1月が終わろうとしていますね。
新型コロナが国内で拡大し、1年が経ちました。

例えばこの1年で私たちは、このウィルスについてどれほどのことを学んだでしょう。
その機会は365日、毎日のようにあったはずですが、、、

今回は、「人の学び」について考察していきます。


■答えはその人の中にある?

「答えはクライアントの中にある」
例えばコーチングを学ぶと、必ずこう教わります。

答えはその人のなかにあって、
コーチはさまざまな良質な「問い」により、
本人が答えを見つけるのを手助けするのだ、と。

近年の私は、この原理原則について、全面的には同意をしていません。

なぜなら、
「その本人が出す答えは、なにをもとに考察されたものか?」
に、大きく左右されるからです。


例えば、問うことによって、
「いじめは、良いことだ」と答えを出した人がいるとします。

あるいは、
「人種差別は、進めるべきだ」と答えを出した人がいるとします。


もし、「答えは本人の中にある」という立場を頑なに守るなら、
それをいったん肯定しなければなりません。

はたして、
本人がそう言っているのだから、それが正解だ、と言えるでしょうか?

もちろん、これを肯定するまでもなく、誰にだってこれらの答えには違和感が生じるはずです。

企業でいえば、上司と部下とのコーチングや1on1など。
答えを押し付けないで、本人から引き出すことが奨励されています。
もちろん、それについて異議はありません。

しかしながら、
部下から出てきた答えは、それほどまでに尊重されるべきなのでしょうか?

■なにをもとに答えを出したのか?

私は、

正しい知識のない人が、正しい答えにたどり着くはずない

と思っています。


相手は、どんな情報ソースをもとに、答えを出したのでしょうか?


例えば昨今の新型コロナについて、

カルト的な信仰の経典によって得た情報
感染者本人が語ったのを聞いて得た情報
ワイドショーを見て得た情報
最新の研究論文を解読して得た情報

どの情報ソースを信じるかによって、持つ信念も、言葉も、答えも違ってくるでしょう。

ことコロナに関していえば、すべての情報ソースが一見、信ぴょう性を持っているため、
この信奉が強くなりすぎて、話題にするだけで過剰に感情的になる人が続出する始末です。

誰もが、「自分の意見こそ正義」と主張し始めると、必ず人に押し付けようとします。
それが、争いの始まりです。


少し横道にそれましたが、
本人の中に答えがある、と信じることは、極端な話、
どんな極端な答えであっても、それが正解として受け入れることになってしまうわけです。


■情報源の精査が必要

私は本を読むことが好きです。

特に、
自然科学
統計学
哲学(東西問わず)
が好きです。

すると、私から発信される言葉の一定割合は、こうしたジャンルの本から得た知識がもとになっています。


コーチングや1on1で、クライアントや部下から答えを引き出そうとします。
そのとき例えば、
もしクライアントや部下が、まったく勉強もすることなく、日々をなんの疑問も持たず、
ただ無為に時間を過ごすような人だったとします(実際にはいませんが)。

そういうタイプの人に、「あなたはどんなキャリアプランを描いているの?」と質問して、
答えが出てくるでしょうか?

出てきたとしても、それは、

どこかで聞いた「他人の言葉」

しか出てこないでしょう。

つまり、

借り物の言葉であり、自分が探して見つけた答えではないのです。


それを、「本人の口から出てきた答えだから」と、尊重するのでしょうか?


■対話の前にしておくべきこと

こうして上司は、日々の忙しさに加え、繰り返される手ごたえのない部下とのやりとりによって、
どんどん消耗していきます。

私は組織内で、コーチングや1on1をすべきだと思っています。

が、こうした対話には、それなりの準備が必要だとも、思っています。


それは、

相手の前提条件の確認

です。


相手が、どんな立場に立って意見を述べようとしているのか?
ということです。

会社が嫌い、という人なら、
会社が好き、である自分と、
最終的には折り合いがつくはずありません。

また、

仕事は金のためにやっているんだ、という人なら、
仕事は自己実現のためにやっているんだ、という自分と、
合意にいたるはずありません。

こうして、世の中には、

一見、有意義なテーマが、
不毛な対話に終わる。

というパターンであふれかえっています。


キリスト教的立場
仏教的立場
イスラム教的立場
儒教的立場

大きく見れば、世界は、さまざまな立場に立つ人がいて、
その立場の情報ソースをもって意見を述べています。

足元の組織でいえば、
上司も部下も、例えば会社、仕事、などをどう考えているのか、違って当然です。

立っている立場違えば、情報ソースも違い、出てくる答えも違います。


対話を始めるためには、
テーマについてのお互いのリテラシーを確認すること
が必要な条件となります。

もちろん、多くの人は、それなりのリテラシーを備えていて、
それなりの答えを出そうとしますが、

やみくもに相手の言っていることを信じ、
かえって質の悪い人をつけあがらせてしまわないよう気をつけましょう。


人の良さも必要ですが、
ときには、冷静に疑う意地悪さも、
特に「今の世の中」には必要ですね。


今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。


◆◇◆ 今週の箴言(しんげん)◆◇◆
(ラ・ロシュフコーより)

ほんとうの雄弁は必要な事は全部しゃべらず、
必要以外は一切しゃべらぬということである。


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