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映画『Fukushima 50』には、後世に継承すべき価値がある。

【『Fukushima 50』/若松節朗監督】

2011年3月11日。日本の観測史上最大となるマグニチュード9.0、最大震度7の大地震が発生。福島第一原子力発電所が巨大な津波に巻き込まれ、全電源喪失という非常事態に陥った。

そのまま原子炉が冷却不能となりメルトダウンが起きれば、東日本全域が高度の放射能によって汚染されてしまう。

その「最悪のシナリオ」を回避するため、原発内に残り闘い続けた50名の作業員たちがいた。彼らのことを、海外メディアは敬意を込めて「Fukushima 50」と呼んだ。

こうした「事実」を「映画」というメディアによって語り直し、後世に伝え継いでいく。角川映画は、この一大プロジェクトに全身全霊で臨んだ。そして完成したのが、映画『Fukushima 50』だ。


今作は、あくまでも「事実に基づく物語」であることを大前提とした上で、僕が思ったことを率直に述べたい。

僕は、この映画を観たことで、現場の最前線で命を懸けて闘い続けた「Fukushima 50」への敬意と感謝の想いを、より深めた。この一言に尽きる。

今作をレビューする上で、仮に原子力発電の是非という議論が絡むとしたら、どうしたって話は複雑になってしまうだろう。実際に、3.11の原発事故を巡る報道は、そうした主義・主張に立脚するものばかりであった。

しかし海外メディアは、「Fukushima 50」の活躍にこそ、ジャーナリズムの光を当てた。そしてこの映画も、同じスタンスをもってして製作されていることは、今作のタイトルからして明らかだ。

僕は、今作で描かれる(限りなく「真実」に近いであろう)「Fukushima 50」の一つ一つの英断と行動、プロフェッショナルとしての矜持には、原発の是非論を超越した、「正しさ」が宿っていると確信している。

あの日、あの時、現場で何が起きていたのか。なぜ、未曾有の危機が5日間で一旦の収束に至ったのか。そのように想像していけば、彼らの「正しさ」は揺るぎないものであったことが結論付けられるはずだ。そして、その「正しさ」には、僕たちが真に学ぶべき教訓が詰まっている。僕たち観客が、この映画から受け取るべき本質的なメッセージは、まさに、ここにしかないと思う。


極めてデリケートで、かつ現在進行形のテーマを扱った作品であるため、今作に対して否定的な意見が生じても全くおかしくはないし、製作陣もその覚悟の上だろう。

その上で断言してしまえば、この映画には、後世に継承していくべき価値がある。

だからこそ僕は、このプロジェクトに携わった全ての製作スタッフ、俳優たちを、そして、彼ら・彼女らの想いが結実した今作『Fukushima 50』を、全力で支持する。



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